豆瓣的影迷们,大家好,我是导演新海诚。
应该有很多朋友都是通过《你的名字。
》《天气之子》认识我的吧。
之前《天气之子》在中国上映时,我对大家许下承诺,三年后我会带着新作品再次与大家见面。
这次能带着《铃芽之旅》来到中国,实现这个约定我真的很开心。
豆瓣の皆さん、こんにちは。
新海誠です。
多くの人が『君の名は。
』や『天気の子』を通じて僕のことを知っているかもしれません。
『天気の子』が中国で上映されたとき、僕は皆さんに、3年後も新しい作品を持ってもう一度皆さんと会いに行きますと約束をしました。
今回、『すずめの戸締まり』と共に中国に来ることができ、約束を守ることができて本当に嬉しいです。
想要创作这部影片的念头源于12年前的3.11东日本大地震,那是一场巨大的灾难,大地震和大海啸接连发生,整个城市都要被冲走了,无数人的生活受到重创。
这场灾难后让大家产生了一种不知道日常生活何时会崩坏的感觉,所有日本人都非常迷茫,在思考国家接下来将何去何从。
我不是地震的直接受害者,这也让我产生了强烈的内疚感:我作为一个娱乐电影创作者,应该担任怎样的职责?
この映画を作ろうと思ったきっかけは、12年前の3月11日に発生した東日本大震災です。
それは本当に大きな地震で、巨大な地震と大津波によって街全体が流され、数え切れないほどの人々の生活が大きな打撃を受けました。
この災害の余波は、いつ日常生活が崩壊するかわからないという感覚を生み、日本人全員が非常に混乱し、この国はこれからどうなっていくのだろうと考えていました。
自分自身は直接の被災者ではなく、それも自分に強烈なうしろめたさが残りました。
エンターテインメント映画の創作者としての自分の役割は何なのだろうと。
我一直认为电影有一个魅力是能让观众在情感上投入,即使与电影中描述的世界相去甚远,但只要吸引了观众,就能让观众与主人公共情。
于是我把大地震作为重要元素,把主人公铃芽设定为一个受灾孤儿,她会经历怎样的旅程,就成了这部电影的主题。
僕はずっと、映画の持つ一つの魅力は、観客を感情移入させることだと思っています。
いかに自分からかけ離れた世界を描いたとしても、作品に引き込まれれば、主人公と同じように共感することができると思うのです。
そこで、震災を作品の重要な要素として、主人公のすずめの設定を震災孤児にし、彼女がどのような旅をするのかを映画のテーマとしました。
所以12年前那场真实发生的灾难中很多人的境遇和电影中的铃芽非常相似,失去了亲人,失去了家,也丢失了原本快乐的自己。
大家在电影中看到的一些场景,就是实实在在发生的真实场景。
电影最后铃芽回到了自己的家乡,打开往门回到小时候发生地震后的城市,火光肆虐,席卷了小镇,那都是真实还原了被海啸袭击之后的场景。
还有一个场景,不知道大家注意到了没,就是有一艘非常大的船跑到了建筑物的上面,这也是现实中发生过的景象。
12年前のあの現実の災害では、多くの人が映画の中のすずめのように、大切な人や家、そして楽しかったころの自分を失ってしまいました。
映画の中に出てくるシーンの中には、実際に起こったシーンもあります。
映画の最後、すずめが故郷に戻り、扉を開き、幼い頃に地震が起きた後の街に戻るのですが、その時に猛威を振るい、街を襲う火災は、津波に襲われた後の様子をそのまま再現しています。
また、お気づきかもしれませんが、大きな船が建物の上に乗り上げている描写がありますが、これも当時実際にあった光景です。
基于此,我创作了剧本,跑到制片公司跟他们商量,听他们的反映。
我害怕有人会反对,但是没有想到,我们团队的每一个人都非常地支持我,说“我们必须完成这样一部电影”。
每一个人都认为,现在地震已经过去12年了,又刚经历了全球扩散的新冠疫情,这部影片带给大家是一个最好的时机,给经历过那场灾难的人们予以抚慰,给没有经历过的人们分享那段伤痛记忆的同时,也带来面对现在生活里困难的勇气与信心。
そんな思いで脚本を書いて、企画会社に持ち掛け、意見を聞きました。
反対する人もいるかと思いましたが、驚いたことに、チームの全員が「この映画は絶対に作らないとだめです」と応援してくれたのです。
震災から12年が経ち、世界中が新型コロナウイルスを経験した今、この映画は、震災を経験した人たちに慰め、そうでない人たちにも記憶を共有し、今の生きづらさに立ち向かう勇気と自信を与えられるのだと、認めて頂けました。
因此虽然整个故事是悲伤的情感基调,但是我依然希望大家观看的过程中,除了落泪也可以觉得非常开心、非常有期待,并且最后走出影院的时候,能带着积极正面的情绪,相信不管我们遇到什么样的灾难和痛苦,未来总是光明的,我们一定能够熬过去。
ですから、全編に渡って悲しいベースはあるのですが、それでも涙だけでなく、楽しい気持ちや期待感を持って観ていただいて、映画館を出るときには、どんな災難や苦しみに遭遇しても、未来には光があって、乗り越えていけるんだという前向きな気持ちを持って頂きたいと思っています。
我每次完成创作之后都会发现有不完美的地方,也非常需要观众给我反馈。
我会思考在下一部作品中怎样去完善它,如果下次做到了就是一种进步,这十年间我就是在这样的创作氛围里努力做好我的本职工作。
作品を完成させるたびに、不完全な部分というのは見つかるもので、観客からのフィードバックがいつも必要です。
次の作品でどう改善するかを考えて、それができたら進歩したと考える。
この10年間、そのように創作を続けてきました。
大家知道如果是真人电影,有了剧本接下来就会直接进行实景拍摄。
但是动画电影不一样,我们首先要画绘画的分镜。
画分镜的时候,我一个人几乎完成了所有的工作,不是一张张的图,是动画分镜,像动画一样的草图,两个小时的电影,我就画了两个小时份量的草图动画,一共做了一年三个月。
而在做动画的时候,一定要有声音,有了声音才知道动画的节奏,所以我又去完成了配音,不管草太还是铃芽的配音,都是我一个人先去亲自完成的。
在中国和大家见面的时候,我也尽全力在每一场现场表演了变成了椅子的草太配音,希望给观众们带来有趣的体验。
ご存知のように実写映画であれば、脚本があれば、次のステップはそのまま撮影になります。
しかし、アニメーションの場合は違います。
まず、絵コンテを描かなければならないのです。
絵コンテは僕一人で全ての仕事を担当します。
しかも僕は絵ではなく、ビデオコンテ、動画の状態になったラフを制作しています。
2時間の映画なら2時間ぶんのラフなアニメを作ります、その過程に1年3カ月かかりました。
また、アニメーションにするときは音が必要です。
音があるとリズムがわかるので、草太のアフレコもすずめのアフレコも、全部僕一人で行いました。
中国でみなさんとお会いしたときには、各会場で椅子になった草太を演じました。
皆さんに楽しんで頂けたなら幸いです。
既然说到了小椅子,我也来分享一下一路带着小椅子旅行的故事吧。
在过安检的时候,可能会被人家拦下来,问一下这是什么。
他毕竟是主角,是我们这个作品最大的标志之一,而且一下子就能吸引到观众的目光。
即便是没有看到过这部作品的人,也会产生好奇感,给大家深刻的印象。
不知道你看完电影后有没有觉得草太椅很可爱呢?
在我带着这把小椅子巡游各个国家的时候,不管是在接受采访的时候,或者是与观众见面会的时候,因为有了这把椅子,所以整个氛围还是很轻松很温馨的。
所以我很感谢小椅子。
すずめの椅子の話になったので、すずめの椅子と一緒に旅行した話を紹介しましょう。
空港の保安検査を通過する時、よく「これは何ですか」と呼び止められることもあります。
何しろ彼は、主人公であり、すずめの戸締まりのシンボルで、見る人の目を一瞬で惹きつける存在なのです。
作品を見たことの無い人にも興味を持って頂き、深い印象を残してくれますから。
映画を観た皆さんも、草太の椅子をかわいいと思ってくれましたでしょうか?
この小さな椅子を持っていろいろな国を回っていたとき、インタビューのときでも、お客さんに会うときでも、椅子があると全体の雰囲気がほっとします。
だから、この小さな椅子には感謝しています。
至于为什么是“椅子”,在我小的时候,父亲帮我亲手做过一个木椅子,在上面还写上了我的名字。
那个时候我就觉得特别开心。
对一个孩子来讲,有刻着自己名字的一个小凳子,就相当于是你自己专属的一个地方。
所以这次影片中需要这样一个角色时,我自然地把小椅子创作了出来。
子どもの頃、父が木の椅子を作ってくれて、そこに僕の名前を書いてくれ、私はとても幸せな気持ちになりました。
子どもにとって、自分の名前が刻まれた小さな椅子があることは、自分の居場所ができたようなものです。
だから、この映画でそういうキャラクターが必要になったとき、自然とこの小さな椅子ができあがったのです。
另外,我有收到有观众提问说“小椅子为什么是三条腿?
”这个原因我确实没有在电影中明确地讲,我在这里就特别跟大家分享下我的创作想法吧。
因为铃芽小时候发生了海啸,整个家都被冲走了,这把小椅子也被冲走了,所以冲掉了一条腿。
我觉得三条腿的小椅子其实就是铃芽内心的象征,她的内心始终会有一种失落感、缺失感,因为在地震中她失去了最爱的妈妈。
我也借此告诉大家,即使我们可能是有缺失的、是不完美的,但是你依然可以生活得很好,可以去勇敢面对自己的生活,都能像草太一样,三条腿站起来自由勇敢地向前奔跑。
観客の方からは「なぜすずめの椅子は3本足なのか?
」という質問を受けました。
映画の中では明確に言わなかったので、ここで私の考えをお伝えします。
すずめが子供の頃、津波が来て家ごと流してしまった時、椅子も流されてしまい、その時に足の1本も流されてしまいました。
3本足の小さな椅子は、実は震災で最愛の母を亡くし、喪失感や不在感をずっと抱えているすずめの心の象徴でもあるんですね。
そして、3本足でも立ち上がり、自由で勇敢に前を向いて走っていった草太のように、たとえ欠けている部分や不完全さがあっても、勇気を持って自分の人生に向き合って、良い人生を歩んでいけることを伝えたかったのです。
影片中还有一个重要元素是“门”,我觉得“门”就是我们日常生活中很常见很有代表性的一个元素,我们每天都会开门说“我出发了”,在下班或者是放学回来的时候非常开心地说“我回来了”,这些日复一日的动作其实就构成了我们的人生。
但是灾难就会让很多人有去无回,说了“我出发了”,但是很多时候我们就再也等不到亲人的那一句“我回来了”。
现在在世界各地也仍旧发生着很多的灾难,但是我始终相信不管怎样我们都一定会有非常美好的未来,也希望通过我的作品能让大家更珍惜日常的幸福、更相信未来的美好,我们就一起这样好好生活着吧。
もうひとつ、この映画の重要な要素に「扉」がありますが、「扉」は、私たちの日常生活の中で非常によく見る、代表的な要素だと思います。
毎日扉を開けて「行ってきます」と言い、会社や学校から帰ってきたら嬉しそうに「ただいま」と言う、そんな日常の行動が実は私たちの生活を構成しています。
しかし、災害によって、多くの人は「行ってきます」と言いながら、大切な人の「ただいま」を待つことができないまま、帰らぬ人となってしまいました。
世界中の多くの場所で、今でも様々な災害が起きています。
作品を通して、皆さんが日常の幸せを大切にし、明るい未来を信じ、共に生きていくことができればと願っています。
还有看到大家在讨论铃芽和草太的感情,其实这次这部电影主要想讲的是铃芽,她自我和解和自我成长的故事,我觉得不能单纯描写情愫,需要让铃芽和一个人之外的东西产生交流,让她更好完成自己的蜕变。
而在处理铃芽和草太的感情时,我认为草太对铃芽来说是一个非常向往,却又未知的形象,她可能有些近似于憧憬的小情愫的感觉。
所以我希望在大家观看整部影片过程中,能让大家关注的,不是他们两个人应不应该在一起,而是他们如何并肩克服困难,获得自我成长。
また、皆さんが議論している、すずめと草太の感情について。
今回の映画で伝えたかったことは、すずめの自分との和解と成長の物語です。
そのためには、ただ恋愛を描くだけではダメで、すずめとその外にある物事との交流を描くことで、すずめが成長できるようにする必要がありました。
また、すずめと草太の関係を扱う上で、草太はすずめにとって、憧れの存在でありながらミステリアスな存在でもあり、憧れに近い小さな恋のような感情を抱いているかもしれないと思っています。
ですから、全編を通して、2人が一緒になるべきかどうかではなく、2人が並んで困難を乗り越え、自分自身を成長させていく姿に注目していただければと思います。
大家在看电影的时候,可能会在看到铃芽第一次见到草太便被吸引追随的时候,觉得不太理解,觉得怎么就一见钟情到这种程度,对吧?
但是我相信很多朋友在看到后面的时候就会知道,其实她不是一见钟情,还有更深层的原因在里面,相信细心的大家看到后面就会知道这个答案了。
すずめが初めて草太と出会ってから、彼に惹かれて、ついていくところを観て、「ひとめぼれだけでここまでするのか?
」と分からなくなってしまう人もいるかもしれませんね?
でも、実は彼女にとってはそれだけではなく、もっと深い理由があったということは、注意深い方なら続きをご覧になれば、その答えがおわかりになるかもしれません。
我还看到有很多观众在讨论电影的细节,很开心大家有关注到这些彩蛋。
比如黄色的蝴蝶代表着铃芽对母亲的思念,它其实是一个可有可无的元素,也没有台词,有些观众可能根本不会注意到它,但是注意到它的人就会有更深的理解。
还有比如说,我的影迷朋友们会对我作品里的人物很熟悉,我就会在电影里设置一些跟之前作品的关联,比如《铃芽之旅》的背景音乐当中,就有《天气之子》和《你的名字。
》背景音乐的小片段插在里面。
而且《天气之子》当中,有一个人物戴了一个骑摩托车的安全帽,这个安全帽在《铃芽之旅》当中也有人戴。
其实我在影片里面会注重埋入这些小彩蛋,这样也能够让影片更吸引人。
也欢迎大家可以去2刷3刷,去捕捉更多小彩蛋,发现更多惊喜。
また、映画の細かい設定について話している方も多く見かけましたが、そのような点にも注目してくれたことをうれしく思います。
例えば、黄色い蝶はすずめの母への憧れを表現しています。
存在していなくても成り立つ要素で、セリフもないので、気づかない人もいるかもしれませんが、気づいてくれた人はより深く話を理解できるかもしれません。
例えば、僕の作品のファンの方で、私の作品に登場するキャラクターをよく知っていると思うので、例えば『すずめの戸締まり』の背景音楽の中に『天気の子』や『君の名は。
』の音楽の一部を挿入したり、過去の作品とのつながりを設定することもあります。
また、『天気の子』では、登場人物の一人がバイクヘルメットをかぶっていますが、このヘルメットは『すずめの戸締まり』でもあるキャラクターが被っています被っています。
このような細かい要素を作品の中に入れることで、より魅力的な作品になるようにしています。
ぜひ、2回、3回と観て頂いて、より多くの驚きを発見して頂けると嬉しいです。
最后还要感谢和我一起制作这部电影的幕后团队,我们团队有一千多位员工跟我一起,才完成了大家在电影院今天看到的这部电影。
当然更要感谢每一位观众,是你们的支持和喜爱支撑着我一直在创作。
最後になりましたが、この映画を支えてくれたスタッフたちに感謝したいと思います。
今回の映画には1000人近いスタッフが関わっています。
もちろん、この映画を観に来てくれた皆さん一人ひとりにも感謝したいと思います。
皆さんの応援と愛に支えられて、私は創作を続けられています。
文 / Annihilator全文约3000字 阅读需要8分钟P.S. 作者在异见者发布的另一篇12000字长文《长评 | 为《天气之子》一辩》中梳理了新海诚的创作生涯并谈及了对其作品的更多看法,可配合本文一同阅读。
《铃芽之旅》不一定是新海诚最差的作品,但一定是他迄今为止最急功近利的作品。
一方面,这部新作入围了今年的柏林主竞赛,算是新海诚的艺术地位受到国际认可的明证;另一方面,无论是动画中罕见的宽银幕画幅,还是演出层面对诸多实拍电影式场面调度的精良模仿,又或者是由阵内一真参与制作的一系列在配器和旋律上都明显比RADWIMPS此前风格更加“宏伟”的音乐,这一切都指向了一个事实——作为“后311”灾难三部曲的最新一环,《铃芽之旅》比前二作要更接近一部纯粹的商业娱乐动画,其故事和表现方式也要更加遵循类型逻辑而展开。
如这个不恰当翻译的中文片名所提示的,《铃芽之旅》是一部关于旅途的电影。
但公路片式的剧作架构并未带来对等的享受旅途的悠闲心情,其叙事的牵引力反而比新海诚以往任何一部作品都要单一、明确且强烈:主人公们必须抓紧时间追赶一个逃亡的神秘生物,将后者在日本各地打开的一扇扇“往门”重新封印,否则灾难就会从门中蔓延出来。
在这个意义上,《铃芽之旅》并非一部公路动画,而是一部步履匆匆的“游客电影”,它像所有那些在全球各地进行观光、但最终却又粗心地忽略一切风景的好莱坞大片一样,自开场起就快马加鞭地驱赶起节奏的脚步,只用短短一个序幕——也即标题和主题曲出现前的十二分钟——就完成了一次“闭门”的高潮;与之相较,前作《天气之子》以接近一半的篇幅对东京的生活常态和城市纹理进行深入描绘,然后才开始给出更为紧迫的情境。
在类型的既定轨道中,《铃芽之旅》的整个前半段不断重演着其序幕:地点不断迁移,规模步步扩大,但桥段的内核却大致相似。
尽管新海诚颇有趣味地将场景设置在各种废墟空间,并且在剧作和演出层面都精心安排了种种变奏,但东京一段作为转折前最关键的高潮部分,仍然被前三次关门的重复性消解了一部分震撼力。
更能体现其类型化模式的,则是在高潮与高潮之间必然会存在一些短暂的休憩时段,我们跟随主人公遇见了一些角色,进入一些温馨的人物互动桥段,这些桥段中包含了一些似是而非的“现实主义”指涉,但也不乏其过往作品中的熟悉元素,例如一些招牌意象,对猫科动物的喜爱,以及食物——但这次不再有做饭过程的细致还原,而只保留了吃饭段落,可见其匆忙程度。
内地的宣传词是成立的,这的确是新海诚的一部“集大成之作”;但是其集大成性只体现其作为一部商业电影的意义上,或者说,是在以更娱乐化的方式兜售自己的风格的意义上。
在这些类型化段落对篇幅的挤占下,留给人物的情感发展空间自然越发狭窄起来;更糟糕的是,男主角草太在电影刚开场不久就变成了一把椅子,其身份与其说是铃芽的爱情对象,不如说更像是在迪士尼式商业动画中常常随着主人公行动的那类承担逗趣功能的宠物式角色。
没有了男性的身体和人设作为中介,二人之间的爱情甚至连从刻板印象的意义上都无法为观众所体察,而仅仅稀薄地寄托在对青蛙王子故事的恶趣味戏仿中。
这在一般的类型电影中也许并不构成问题,但是在一部新海诚式的爱情电影中却成为了致命的缺陷:之于前者,爱情不过是大叙事中一点必要的调味剂;之于后者,爱情却需要成为文本的核心动力,它至少要强大到足以支撑起电影后半段在情节和情感上的双重扭转——草太化作要石之后,铃芽再一次踏上了拯救之旅,便是被爱的信念所驱动的;然而,因为此前部分对于二人爱情的刻画完全不足以引发对拯救之旅的情感共鸣,导致观众只能机械地理解铃芽的决心,进而影响了其后整个情绪递进直至高潮的全过程。
在这里,新海诚尝试重现《你的名字。
》和《天气之子》的情绪感染力,但最终只是重蹈了同为女性主角公路题材的《追逐繁星的孩子》中无效煽情的覆辙。
此外,不妨细究《铃芽之旅》的设定:将地震灾害具象化为“蚯蚓”,乍一看和前作《天气之子》一样,是要为无形之物赋予有形的身体;但是我们不应忘记,地震本就是大地的身体的震动,而震动本就是最可感、最能揭示某种物质性的运动(《天气之子》中的杯盘晃动甚至是一种《潜行者》式的物质性细节),因此《铃芽之旅》的这种处理方式不过是多此一举,它进一步地显示出新海诚在演出层面对类型逻辑的屈从——正如蚯蚓每次都首先作为红光反映在铃芽的瞳孔中一样,这种类型逻辑即是一种视觉至上的逻辑,它必须要将危机转换成最可见的、最能让观众识别的奇观,而这种奇观恰恰是扁平的、不存在身体维度的。
正是在这种前提下,当铃芽在东京一段中真的爬上了蚯蚓的身体时,CG制作的蚯蚓身体和手绘的人物身体之间产生了一种错位的割裂感,不经令人想念《天气之子》中少男少女在天空中飞舞、与天气融为一体的震撼的演出。
作为一部粗心的类型片,《铃芽之旅》在各方面都是相对《天气之子》的一次退步;而作为一部讲述灾难与拯救的后311动画,《铃芽之旅》更表现为对《天气之子》的一次背叛。
在这一次的设定中,“要拯救爱人还是拯救世界?
”的两难抉择同样存在:为了将灾难封印,草太被迫承担起化为要石的责任;而要拯救草太,则不得不面临灾难重新降临的风险。
尽管与草太的爷爷的对话已经充分说明了问题的尖锐性,但铃芽在踏上拯救之旅时却对此全无考虑;直到她已经闯入“常世”,试图将草太变成的要石拔出时,才在身为前要石的“大臣”猫咪的提醒下想起这个此前一直被自己忽视的问题,于是说:“那就让我变成要石吧!
”但是在一部商业娱乐动画里,这又怎么可能发生呢?
不过只是说说而已。
于是,大臣最后还是必须重新变回要石,用自己的牺牲换来电影对两难抉择的规避,让草太和铃芽既可以团聚、又不用承担引发灾难的责任。
特别是,如果我们无视电影为了掩盖矛盾而刻意对大臣动机层面的矮化和行为层面的幼稚化,那么它拒绝成为要石、任由灾难落入世间的行为与《天气之子》中帆高的选择又是何其相似!
为何前作中可以为了爱而勇敢弃绝的拯救世界之责任,在本作中又以一种更加无法挣脱的方式重新绑定在了个体身上?
需要注意的是,大臣并非被迫成为了要石,而是被铃芽对草太的爱所感动,因而“主动”决定帮助他们——正是这一处理上,《铃芽之旅》的邪恶性显露无疑。
我们发现构成其文本核心动力的并不是爱,而正是这样一种“和解叙事”,它驱动着整个影片后半段的拯救之旅:铃芽的讨厌让大臣变得瘦小,但当二者作为战斗伙伴并肩踏入往门时,和解发生了,大臣又重新焕发了生机;同样,铃芽的姨妈骑自行车载着铃芽和猫咪们寻找往门,同样也是对之前的争吵的一种和解;当铃芽在常世中遇到小时候的自己时,整个拯救之旅的隐喻也在此刻被揭露为铃芽对自己的拯救——与童年的创伤性记忆完成和解。
不仅如此,铃芽此前途径的每一个地点都对应着日本历史上的一次震灾,而每一次关门都是一次和解、一次对灾难记忆的赎回。
但是,这样的和解叙事非但没有通向对自我的解放,反而让每个人物都更加心甘情愿地陷入原有的秩序的束缚之中:大臣不再向往自由,而是重新担负起了成为要石的责任;姨妈咽下了抱怨,不再对照顾铃芽之外的生活抱有希望;而在铃芽的“小时候看见的一个看起来很像妈妈的人其实是未来的自己”这种诺兰主义的因果循环式救赎中,我们难道不能嗅出一点宿命论式的、对自己的可能性的约束吗?
同样身处一个“后灾难”的世界,《天气之子》承认世界的撕裂已经不可挽回,但仍要在失常的世界中继续生存下去;《铃芽之旅》却宣称一切撕裂都可以被和解所拯救,一切失落的记忆都可被赎回,一切伤痛都能以一种幻想的方式得到“补完”——从这个角度看,作为新海诚第一部直接引用了311事件(而非前两作那样隐喻式的引用)的作品,《铃芽之旅》可被视为新海诚自己的《新世纪福音战士:终》;这两部作品的共同之处就在于,它们看似从幻想走入了现实,但只是以现实为借口逃避了此前作品的撕裂性,从而沉入了更无药可救的幻想之中。
评分表
*四星制评分,最高★★★★,×代表零分。
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本文首发于公众号 骨朵网络影视 文/知庸3月冷档期,被《铃芽之旅》彻底引爆。
导演新海诚来华宣传期间天天冲上热搜,带动影片实现冷档期预售破亿的惊人成绩。
本片在内地开画即打破日本电影首映日票房纪录,极有可能向新海诚现象级前作《你的名字》保持的日片总票房纪录(5.75亿)发起冲击。
观众前仆后继,兑现与新海诚的又一次三年之约。
口碑方面,《铃芽之旅》的观众评价虽不及《你的名字》,但比起新海诚上一部作品《天气之子》有明显回升。
三部影片正好组成了新海诚的“灾难三部曲”,而被称为导演集大成之作的《铃芽之旅》,确实汇集了他作品中的诸多经典元素:为爱不顾一切的少男少女,将个人情感与世界命运紧密相连的“世界系”设定,脱胎于日本民俗的现代神话式故事,氛围唯美,如壁纸般精致的画面等等。
但本片又与新海诚的前作在主题上有显著不同,故事不再止于纯爱,而是在主角奔走阻止地震灾难的旅程中,重述民族创伤记忆,为每个曾历经灾变的幸存者疗伤。
这份社会关怀,与极致的概念设置和视听演出融为一体,让《铃芽之旅》成为了新海诚或许迄今为止完成度最高的作品,也为所有走过这几年艰难的观众,送上春天的第一次治愈。
01 “世界系”狂魔的进化谈起新海诚作品,“世界系”概念无疑是最为突出的特征之一。
所谓“世界系”,是日漫中的一类常见设定,此类作品中男女主角的情感关系,直接和整个世界的命运相连。
新海诚一直热衷于在“世界系”的宏大中,浓墨重彩地书写男女主角的纯爱故事。
从早期作品《星之声》中跨越宇宙光年难以触碰的爱恋,《云的彼端,约定的地方》中科幻战争背景下的少年心绪,到以陨石撞击、暴雨、地震为核心事件,将大灾难作为男女主角羁绊视觉化表征的“灾难三部曲”,“世界系”始终是新海诚作品的核心设定。
这样的设定,让他的影片往往极致展现着唯美震撼的画面,但故事情绪却容易显得稀薄。
简单的纯爱故事往往难以撑起极为宏大的世界观,也让新海诚一度落下个不会讲故事的“壁纸导演”名号。
《铃芽之旅》依然是“世界系”设定下的作品,男女主角走遍日本关闭死后世界与人间的连通门“往门”,倾力避免放出的“蚓厄”,就是地震的直接视觉化象征。
它虽然无比庞大显眼,但只有男女主角可以看到它的存在,两人的羁绊,决定着“蚓厄”是否会砸向人间引发大地震。
但正如新海诚自己在创作手记中提及的,本片的主线共有三条,除了男女主角的恋爱故事之外,两人走遍日本的公路故事,和女主角铃芽治愈灾后内心创伤的成长故事,同样至关重要。
主线的延展,让剧情更加丰富,也令“世界系”设定更有落地的实感。
公路故事方面,这是新海诚在口碑平平的《追逐繁星的孩子》后再次尝试公路片。
时隔多年,导演明显更会掌握类型的节拍,日本各地的风土人情,一路上女性群像与铃芽的互助,与主角抗灾的紧张恰好中和。
尽管段落节奏尚可更加紧凑,但“世界系”概念在公路类型中,不再止于可被一句话概括的宏大设定,而是真切衍生出一个个群像角色的回忆与日常,这无疑是新海诚在叙事能力上的巨大进步。
成长故事方面,由于男主角草太在开场不久就被变成了一把椅子,铃芽不得不带着椅子四处奔走。
虽然铃芽和被“物化”的草太也上演着“公主和青蛙”般的童话爱情故事,但两人的互动基本局限于人与会说话、会奔跑的椅子之间奇趣的互动,没有太多CP感。
椅子男主更像是铃芽成长路上陪伴她前行的伙伴,尽管影片最后仍将两人的关系定义为爱情,但片中大部分时间,爱情主线显然弱于成长线和公路线。
不再执着于凌驾一切的纯爱后,“世界系”设定在公路与成长故事中,主角身边友情、亲情的强化下,显得更加扎实。
影片的完成度因此大有提升,也让故事真正的主题,悼亡与治愈,更容易打动观众。
02 创伤与日常的交战日本整个国家,都处于环太平洋地震带上,这让遭遇地震,成了日本国民的日常。
《铃芽之旅》中,随“蚓厄”爆发,在所有路人手机上,时刻可能响起的地震警报,正是这种日常的展现。
但2011年的311大地震,远远超出了日常的承受范围。
这场9.0级的史上第五强地震,引发了大海啸和核电站泄漏,最终导致上万人死亡、失踪。
311地震对日本民族记忆造成的巨大创伤,奠定了后311时代,日本电影叙事中常见的地震隐喻和悼亡氛围。
新海诚“灾难三部曲”前两部中的陨石坠落和暴雨,就往往被解读为311地震的银幕余震。
到了《铃芽之旅》,新海诚直接将地震用民俗神话的框架进行包装,把主角阻止地震的过程,转化为关闭“往门”,防止“蚓厄”涌出的概念体系。
对地震的视觉明喻,让影片成为新海诚作品中最有“大片感”的一部,每次“蚓厄”缓缓升起现世,都让影片呈现毁天灭地的爆裂视听,对观众造成极强冲击。
这份冲击绝不止于感官层面,而是真正震撼心灵。
影片将主角们走遍日本要关闭的5处废墟“往门”,设置在日本百年来5场大型地震的发生地。
一次次关闭“往门”的旅途,也就成了对日本民族地震创伤记忆的巡礼与回溯。
新海诚的明智之处在于,他并未直接点明影片对日本地震史的回顾,将影片打造成哭天抢地的苦难滥情戏码,而是将废墟设置成学校、游乐园这些更为可感的日常场所。
人们对创伤的记忆,也就并非是撕心裂肺的悲痛,而是模糊淡忘了废墟伤痕的存在,记不起那些场所中曾鲜活的日常,却于不经意间隐约流露一声叹息,这也更符合现实中创伤亲历者的心理状态。
主角关门抗灾的过程,便被设置为日常记忆与创伤记忆的抗衡。
随“蚓厄”奔涌而出的创伤记忆,具象为编织成网的黄线,升腾至空中笼罩大地。
与之对抗的铃芽则跪地与废墟相连,感受着此地人们曾经历的温暖日常记忆,从中汲取能量,生发出下沉的蓝线与黄线纠缠。
这堪称《铃芽之旅》最绝妙的一笔,民族记忆中两种情绪的抽象交战,被具象为黄线与蓝线,上升与下沉的物理对决。
日常记忆的下沉,积淀为震灾受难者们“人心的重量”,让大地重归平静,也让“世界系”设定真正指向了悼亡与治愈的社会关怀。
03 送你一把小椅子新海诚的社会关怀,还体现在男主角身份的双重性上。
他既是铃芽的依恋对象,也被附身在一把三条腿的椅子身上。
这把椅子,正是铃芽因地震去世的母亲,所留下的遗物。
缺了一条腿,不妨碍附身在椅子上的男主角竭尽全力的奔跑,和阻止震灾的决心。
椅子男主在此成为震灾幸存者们坚强意志的象征,男女主角逐渐建立的羁绊,也就不再只是单纯的恋爱关系,更指向铃芽作为震灾幸存者的成长之路。
男主牺牲自己镇压“蚓厄”后,想要重新寻回他的铃芽,必须直面曾被自己刻意抹去的创伤回忆,打开当年震灾所在地的“往门”。
在片尾,影片揭示出铃芽所遭遇的震灾,正是现实中的311大地震。
尽管新海诚的“世界系”作品一向格局宏大,但片尾这重与现实的直接关联,在311地震创伤“往门”的打开中,才第一次真正打开了他作品的社会格局。
铃芽对门后“蚓厄”的封印,也承载起了治愈整个日本民族311精神创伤的使命。
从前两幕的关门之旅,到第三幕的开门之路,影片疗愈创伤的方法,不再仅仅是对悲痛回忆的一味压制。
新海诚鼓励着观众,像铃芽一样打开自己因受伤而紧紧封闭的心门,这并不会遭致创伤对心灵的吞噬,反而只有用勇气平复随时可能崩裂的疤痕,才能真正让自己重回平静,再安然关门踏上新的旅程。
这份勇气和力量,无需从他人身上寻得,而是来源于自身。
在本片结局,铃芽将男主从椅子中解救出来,遇到了在震灾时误入“往门”的儿时自己。
她将椅子送给儿时的自己,鼓励她继续前行。
椅子,在此成为故事情感轮回的象征,驱动这场轮回的,正是铃芽自己对未来的信念。
这场穿越时空的自我疗愈,是本片最大的泪点,也是真正的落点。
影片所疗愈的创伤,虽然是由311地震引出的日本民族创伤,却也在自我疗愈的落点中,从对震灾创伤的特指,扩大为对一切心理创伤的泛指。
影片恰好于后疫情时代之初诞生,也或许正是当下饱受创伤的人们所急需的药方。
我们绝不能忘记过去,但也不必拘泥于过去的沉痛,这并非一场自我感动,而是过尽千帆的释然。
或许出乎所有新海诚影迷意料,《铃芽之旅》在“世界系”风格上更进一步,成了一部治愈系“哭片”的代表作。
上一部在内地市场爆火的“哭片”,还是《送你一朵小红花》,而《铃芽之旅》或许也可以概括成“送你一把小椅子”。
在对日常记忆的寻回和对自我疗愈的坚信中,这把缺了一条腿的椅子,也可以迈向远方。
什么都不重要。
在恋人和世界间选择谁不重要,是飞上天空还是坠入大地不重要,是要肯定日常还是反思日常不重要。
在这里,这种电车难题式的争执,语言游戏般的意识形态解构,甚至稀松莫名的故事形式,都不重要。
因为于你真正重要的东西,你会不由自主不可遏止地走向它,追寻它,或者悼念它。
你无需自我和解,你的追寻与悼念都只是单纯地因为,你会爱,你也会悲伤这个故事打动我的只是一个瞬间,当少女站在原野上,看着孩童时代那个无助的自己,她再也忍不住地跪了下来,像是终于想起什么似的无比悲伤地哭泣。
那个时刻,在常世的大地上,少女哭着说:妈妈在那个瞬间,少女才意识到,母亲是被永恒失去之物。
这是献给后疫情时代的电影,地震,灾难,群体记忆的共同伤痕,再也回不来的人们,被失去的日常,永恒的创伤创伤是永恒的,人类永远在被伤害。
灾难被这样定义:实在界的突然降临。
比如一场疫情,一次地震。
比如第一次理解到父母在吵架这件事实,比如发现自己并不被喜欢的人喜欢。
比如第一次感知到社会这一庞大系统的存在,感受到自己的渺小,无力,虚无。
比如奶奶突然病倒,比如第一次和家乡告别。
人类从出生那一刻就在哭泣了不是吗?
那一天,与母亲相联结的脐带被剪断。
婴儿发出第一声啼哭。
“我”诞生了,同时有些东西被永恒的失去了。
那是创伤的开始,是人类的首次哀悼,哀悼母子一元世界的永恒失去,哀悼原初时代的一去不返。
从此,你将不得不独自面对“世界”。
语言在向你奔来,欢迎加入人类社会原生家庭的伤害啦,语言和社会对人的异化和阄割啦,都是精神分析学派的词,但也确实是我们的生活。
我的精神分析师是这样治疗我的,谈话,提问,诱导我讲出我的创伤,因为言说出来的东西才能真正进入到你的意识,而意识到被什么创伤才是治愈的开始。
言说即意识,意识即疗愈,荣格说:“当潜意识没有进入你的意识,它就会成为你的命运。
”也就是说,铃芽之旅是一场大型的重温仪式。
那一天,人们走出家门对家人说“我出门了”的残像,那一天,和妈妈一起做椅子时的回忆,那些平淡却幸福的日子,都在实在界的突然降临中(比如地震比如疫情种种),成为了触不可及之物,永远消逝之物。
现在有许多人怀念2019,就好像妈妈去世才意识到妈妈的无可替代,当时只道是寻常,人类是不断被创伤,不断在失去的生物当创伤越积越多成为了一种麻木,当符号日积月累成为了各种解构游戏。
我们不禁怀念起那种“对存在之在场原初的惊异”,怀念已经逝去的年代,怀念那些最平常的幸褔,最单纯的人际关系,怀念那些发自内心的笑容,那些不可遏止的像大雨一样的哭泣并不是我们不会哭泣,而是我们遗忘了。
废墟成为了城市的潜意识,童年时代的不幸被压在了人的心底。
幼时的玲芽没能理解妈妈去世的事实,现在她长大了,成了少女。
少年少女必须直面自己的创伤,哪怕这些并不是他们的错。
这也许是很疼痛的过程,没有比哀悼更加疼痛的事情了,它意味着一种不加修饰的重温,一种赤裸裸面对世界与实在之恶的勇气,妈妈死的毫无道理,那些在灾难中被毁掉的人毁得毫无道理。
但当道理被遗忘,当一切语词被遗忘,我们所能感受到的,是对失去之物的无比思念,是触不可及的近乎器质性的痛苦与最深沉最不可遏止的悲伤因为人是时间性的动物,时间意味着语言,意味着再也回不去了因为真的很想念,那些回不去的日子,那些很难再见到的人在里世界的平原上,少女铃芽在故事的最后第一次放声大哭。
母亲被失去了,还有很多很多很多东西伴随着地震或者不是地震的日常,被失去了。
在意识到这样的事实的瞬间,她流下了生命本真的眼泪,没有任何意识形态任何语言,少女终于走到了创伤面前,以非常勇敢而虔诚的姿态思而复思 祈唤日不见之神祈唤祖祖代代之土地神此山此河 承恩甚久 不胜感激诚惶诚恐 诚惶诚恐谨遵神旨 予以奉还我深知命如蜉蝣深知死亡总是如影随形但此时哪怕再多一年 再多一日 再多一时也好我辈仍愿人生得续勇猛的大大神啊诚心 诚意请求您出手相助予以奉还!
我说过,意识是疗愈的开始,我们说的自我和解,可能就是这个意思。
意识是一种重温,是一种面对,因而伴随着阵痛和巨大的哀伤。
它像是一种净化心灵的仪式,一种死与新生的仪式,有人称这个过程为:哀悼与之相对的一种仪式是庆祝,一种感恩自己现在所得的虔诚谦虚的态度。
庆祝与哀悼,最古老的两种仪式,人类的生命之源eva就是最典型的哀悼式加入大地震的设定,应该是想说,人类是被创伤的群体,人人都可以是玲芽。
那只三条腿的椅子,是对人类存在境况的比喻。
完美的椅子是不存在的,椅子的第四只腿,已经在时间中被永恒的失去了遗忘了,成为了失窃的信。
311只是群体记忆的符号,是失去与创伤的代名。
白猫是逝者之遗念,暗示着潜意识的伤痕对我们的影响。
在哀悼仪式前,这种影响往往是负面的,但也正是这负面影响让我们意识到潜意识创伤的存在,就好像白猫带着铃芽在城市里寻找废墟与往门。
以及非常莫名其妙的恋爱设定和帮扶情节,可能是想说,人类只可能因为爱而改变和成长吧。
为了心中的悸动不顾一切地前进的少女,一种永恒的acg形象。
当然了,这个故事拍的不怎么好,我不得不说。
故事的最后,铃芽站在原野上,创伤浮出来,很多人死去了,妈妈死去了,有些东西被永恒的丢失了,有些东西还坚强的存在着。
创伤仍存在着,地球还在转,太阳照在草地上,光阴仍在走,她在意的人在身后等她。
哀悼结束了。
然后呢,你想过怎样的人生?
后记:终于和铃芽之旅这部电影扯清了,我并不觉得它是多么优秀的电影,但我挺喜欢它。
直到这篇文字完成,我才真正意识到我为什么喜欢它,之前更像是一种感觉,现在它们落地成了文字。
我在星期天看完了这部电影,这篇文字本该在那时完成。
但那时的初稿被不小心删掉了,并且再也想不起来自己写了什么。
于是对玲芽之旅的感受成了“失窃的信”。
我还是个学生要念书,并且不太好意思在社交平台上发东西。
所以想着就这么算了。
但是心中总有什么东西觉得很难过和孤独,这几天也没法好好念书,尤其是在网上看到铃芽之旅相关的东西,就感到一种失去什么的难过和寂寞。
也曾经数次提笔,但是思绪太多不知该怎么写才好,感觉到把各种情绪流梳理成有条理的文字是很吃力的工作。
我的人生经历太少,所以我决定要好好生活。
但是不完成这篇文字,不找到那封“失窃的信”,我似乎永远没法向前,永远沉浸在回忆和寂寞里。
所以我决定完成它,想给自己的情绪一个交代。
至于写的好不好就无所谓啦,生活总得向前看嘛。
这篇文字和初稿似乎完全不一样,不过对于我,“失窃的信”已经找到了。
凭借《你的名字。
》《天气之子》奠定自己在日本动画界地位的新海诚,如今再赴“三年之约”,带着自己的“灾难三部曲”第三部《铃芽之旅》来到中国。
《铃芽之旅》的国内票房在预售期间就已经惊人破亿,目前电影的口碑也相当良好,普遍被誉为是新海诚的生涯集大成之作。
不过你可能不知道,新海诚除了是动画导演之外,他还是一名资深的硬科幻小说爱好者。
新海诚第一部公映的动画作品《星之声》就致敬了黄金时代的硬科幻巨头阿瑟·克拉克;他也读刘慈欣的《三体》和《乡村教师》;而让他彻底破圈的《你的名字。
》,创作灵感正是来自于当代的硬科幻之王格雷格·伊根……下面本文就为你全面解析这位大导演的“幻迷”心路——01|直球表白科幻偶像格雷格·伊根:“我永远期待您的下一部作品!
”新海诚是澳大利亚科幻作家格雷格·伊根的头号迷弟。
他在采访中直言不讳:在自己目前最为知名的动画电影《你的名字。
》中,“身份互换”这个核心概念的灵感来源,就是出自伊根的科幻小说。
格雷格·伊根以擅长生物科幻、数学科幻和物理科幻闻名。
出道三十余年来,伊根斩获雨果奖、星云奖、轨迹奖、坎贝尔纪念奖等科幻大奖无数。
伊根在日本也有着非同寻常的人气,不仅多次拿到过日本科幻星云赏的提名及大奖,更是有大量的日本动画埋梗致敬伊根的小说。
《你的名字。
》的最初构想几乎就是依照伊根的小说设定然而伊根是一位非常神秘的作家,从未在网上公开过任何一张照片,读者能见到的只有一个相当具有“理科范”的个人网站,和日常转发着数学新闻的社交媒体账号。
伊根在得知新海诚致敬自己的消息后,也去看了《你的名字。
》并表示赞许。
新海诚看到伊根账号的发言,就和每一个被偶像作家翻牌的科幻迷一样兴奋不已。
当时的他连忙用英语与伊根进行互动与表白:“如同您全世界的诸多粉丝一般,您的书极大地改变了我的想法。
我永远期待您的下一部作品!
”新海诚为伊根在日本出版的小说集《祈祷之海》撰写了腰封推荐,伊根小说里那种“跨越平行世界的想象力”深深影响着新海诚的创作。
从《你的名字。
》《天气之子》到最新作《铃芽之旅》,我们都可以看到伊根小说中平行世界、身份互换、地缘政治和民俗信仰等主题,与这些电影中的设定、情感遥相呼应。
格雷格·伊根经典科幻三重奏I:《祈祷之海》新海诚动画作品的一大主题,就是人与人之间的“距离”,不仅是在空间上、在时间上,还包括心灵之间的“距离”。
而伊根恰恰在小说《游离之境》里设定了一个人与人之间已经没有思想“距离”的“灾后世界”。
虽然新海诚自己也经常抱怨伊根的作品晦涩难懂,但这篇作品就是他们之间在创作上所产生的共鸣。
02|可能是日本最懂刘慈欣的动画导演:“真是美丽的科幻,美丽的故事。
”在格雷格·伊根的小说《学习成为我》中,人类可以利用“宝石”技术制造自己的“第二大脑”。
除了是非常经典的关于探讨自我意识的科幻作品外,这篇小说也反映出伊根对于人类技术发展的忧思。
这种忧思也是同时代硬科幻作家共通的创作母题,就比如我们最熟悉的科幻作家刘慈欣。
在创作《铃芽之旅》期间,闲暇之余的新海诚就孜孜不倦地读着刘慈欣的科幻小说。
从《三体》三部曲到日本编选的短篇集《圆》,新海诚都是抢在第一时间阅读,并在社交媒体上发表感想,表示强烈推荐。
“不断克服困难,方法是技术的,战略是理智的……真是美丽的科幻,美丽的故事。
”从新海诚评价《三体Ⅱ·黑暗森林》的这句话我们就能看出他的“硬科幻”爱好程度不低。
新海诚和我们一样都非常佩服刘慈欣作品里的格局和想象力。
新海诚“在线追更”《三体》,而且都发表了极高的评价实际上,新海诚还在另一篇谈创作《铃芽之旅》的采访中提到,近期爱不释手的小说也是刘慈欣的短篇集,尤其喜欢《地火》《乡村教师》和《圆圆的肥皂泡》这三篇。
刘慈欣小说里的人物,通过对某种事物的热情,最终直接影响和改变历史的故事,总是让他感动不已。
新海诚说,他从刘慈欣身上学到了一个非常宝贵的方法论,就是通过制造“强烈的视觉印象”,来让“硬科幻”作品更容易被一般读者所接受。
这其实也点出了为什么新海诚执着于要当所谓的“壁纸狂魔”,以及为什么要以“巨大的天灾”作为如今作品的核心设定。
这就是创作者之间的相互理解。
《铃芽之旅》具有冲击力的主视觉海报《铃芽之旅》中的“常世”设定,我们也可以理解为一种“高维度”空间。
日本神话中的“常世”就是一个没有时间概念的地方。
硬科幻作家包括格雷格·伊根、刘慈欣都写过这样的概念。
当然最终我们还是要回到科幻的黄金时代,因为这些作品的源头,其实都是来自于一位硬科幻巨头——阿瑟·克拉克。
03|从小看着阿瑟·克拉克的小说长大:“我就是那个要出发前往别处的孩子。
”新海诚毫无疑问是一个看着八九十年代日本科幻动画长大的“老二次元”,进而自己也一步步走上了成为动画导演的道路。
新海诚对科幻的热衷是贯穿始终的,而阿瑟·克拉克就是那位带领他进入科幻大门的作家。
新海诚2002年第一部在影院公映的短篇动画《星之声》(The Voices of a Distant Star),英文标题来自克拉克《遥远的地球之歌》(The Songs of Distant Earth)。
新海诚在2016年的采访中说,他最喜欢的三部克拉克小说是《童年的终结》《城市与群星》《2001太空漫游》。
阿瑟·克拉克《城市与群星》在新海诚的每一部动画作品中,我们确实都能看到克拉克《城市与群星》的影子。
《城市与群星》讲述的是主角阿尔文想要离开“乌托邦”前往外部世界的故事。
对新海诚来说,这个“外部世界”就是东京。
每一个主角比如宫水三叶、森岛帆高、岩户铃芽,甚至包括新海诚导演自己,都是在离开自己的家乡后前往东京。
“‘从现今所在的地方出发前往别处的孩子’的主题,与当时还身处长野的我抱有的‘想去东京’的心情相重叠了……我过去的作品都有着相同的主题,看来自己所喜爱的东西与自己创作的东西是紧密联系的。
”新海诚如是说。
《天气之子》里总在下雨的东京反映着“外来者”的心境细心的朋友还会发现,《铃芽之旅》以及新海诚之前的所有动画电影,其实都严格遵循着克拉克的“三大定律(Clarke's Laws)”。
以《铃芽之旅》为例,草太的爷爷说铃芽帮不了草太,这是第一定律;铃芽能不能帮到草太,只有帮了才能知道,这是第二定律;而“关门”的设定看起来就是一种不科学的魔法,这是第三定律。
新海诚完全明白克拉克作品的情绪,那是一种坚信在科学技术的引导下,人类会通往光明未来的积极世界观。
而无论是新海诚、刘慈欣还是格雷格·伊根,他们都对阿瑟·克拉克的这种科幻精神进行了继承、改造与发扬。
《铃芽之旅》中要阻止灾祸的两位主角:岩户铃芽与宗像草太正如刘慈欣在《三体》中致敬阿瑟·克拉克《天堂的喷泉》里的太空电梯,《天堂的喷泉》里的异域风俗又呼应着新海诚“灾难三部曲”里的乡土信仰;克拉克在澳大利亚写完了“离乡”的《城市与群星》,而那里却也是格雷格·伊根的故乡,《2001太空漫游》中的“摆脱物质束缚”化为了伊根小说里的那片“祈祷之海”。
无论是黄金时代的克拉克,还是我们熟悉的刘慈欣,抑或是当代的格雷格·伊根,新海诚正好喜欢这几位硬科幻作家绝非巧合。
优秀的创作者总是善于从他人的作品中发现共性并加以学习。
所以如果既喜欢科幻小说,又喜欢新海诚的动画电影,那么阅读这些作品一定能够更好地理解这些创作者之间的情感共鸣。
《铃芽之旅》的宣传标语是这样一句简单的台词:我出发了。
阿尔文出发了,“主”出发了,要逃离奇异吸引子的人也出发了。
(首发机核网)从《天气之子》开始, 新海诚在日本传统信仰和民俗学方面越来越深入,将日本传统的神灵与自然力的内在关系,很美和鲜活地呈现在观众面前。
笔者试着将其中的相关元素进行一定的解读。
其中大部分资料,主要源于柳田国男(1875-1962)和折口信夫(1887-1953)的著作。
两位大师离世距今已经超过半个世纪,现在日本的民间信仰和当时相比,应该也发生过一定的变化,这部分就超出笔者能力了,请各位见谅。
1. 猫猫是神灵,应该是区域性质的守护神白猫和黑猫,应该从来都不是普通的猫。
日本古时候,大部分村落都会相信有区域性的守护神(比如田神、山神),支配着村中的一切。
这些神灵大部分时间,都在村子里和村民们共同生活,村民们自己无法决定的事情,都会向神灵询问。
神灵的本体是不可见的,村民在村镇门口等地树立石像、石碑,作为神的化身,称为“神体”。
也有一些村庄会修建神社的。
猫猫化身的石碑,就是这样的“神体”。
2. 两位“大臣”猫猫
两个猫猫被称为“大臣”。
我印象中,黑猫是叫“右大臣”,但不记得说过白猫叫“左大臣”。
这个应该来自神社外廓的“随神门”入口处的两尊守护神像。
两尊神像分别佩戴弓箭,分别叫“矢大臣”和“左大臣”。
3. 神灵(猫猫)的移动是自发的,但需要人类的辅助镇压地震是两位神灵(猫猫)的职责,所以当“引力”即地震之门移动时,他们要随之移动,这是他们自发的行为。
但是他们无法完全靠自己达成这一点,而是需要人类的参与。
在日本传统中也是这样,神灵的一些行事,比如传达神谕,需要借用人类的身体才能完成。
这些人类的作用,是作为神灵的“媒介”,这些人就是一类特殊的神职人员。
巫女、男巫、神子等等,很多时候就是承担这一职责的。
男主的职业“关门者”,无疑也属于此行列。
为了方便理解,所以镇石变成猫猫,不是女主失误、误碰导致的。
相反,是以女主为媒介,来实现自己的职责。
此时的玲芽,本来就具有了“巫女”的属性(后面详说);同时,因为女主对神灵发出了邀请,导致这个过程发生了扰动(后面详说)。
为方便理解,下面笼统地将男主、女主的神圣身份称为神官、巫女。
严格来说,并非所有的神官和巫女的职责,都是与神灵直接沟通、作为神灵的直接中介,这里不再细究。
4. 玲芽的“巫女”属性在片中几个场景,都显示了玲芽的巫女属性。
最明显的,当然是她能够看到“引力”的具象化。
大部分观众应该都认为,是因为她碰触了神灵(猫猫)导致的。
这个可能是事实,但玲芽获得这个能力的时间点,也有可能比这个更早。
而是4岁经历地震时就获得了。
在片中多次显示一个场景,就是一位身穿神职服饰的女性,在大门前向4岁的她走来。
毫无疑问,导演是想要引导观众,认为那位女性是玲芽的母亲。
至少笔者就这样猜测过,所以猜测玲芽本来就出身于巫女世家。
后来导演当然是推翻了这一预期,玲芽的母亲只是一个普通人。
这个人不是玲芽的母亲,而是未来的玲芽自己,穿着的是作为神官的男主的衣服。
这个镜头,有很强的象征意味,是巫女身份的传承。
所以,笔者认为,从那一刻,小玲芽就具备的巫女是资格,并且在日后注定要成为神灵履行作为时的中介。
那个三条腿的椅子,就是传递的信物。
所以玲芽确实是被传了衣钵的巫女世家,只是是从她自己这一代开始的,通过常世的时间重叠,自我赋予了这一权位。
5. 行事诡秘的神灵:自然力的应对者日本有“八百万神”之说,这体现了万物有灵的思想。
“神灵是自然力的人格化”,是一个常见的结论。
笔者认为,这么说不算错,但不全面。
古时候人们对各种未知的、诡异的自然力感到惶恐,于是将其作为神灵进行崇拜,希望多福少宰,这是各文化中普遍存在的现象。
日本的“自然神”并非仅仅对自然现象、尤其灾害现象本身的崇拜,还有很大的比例,是被认为是具有“镇压”灾害的力量的。
黑白两只猫猫,就属于这部分神灵,他们可以认为与自然力伴生和对抗而来的“自然力”。
因为是对自然力的应对,所以也随着自然力而千变万化。
因为自然力是诡秘、不可捉摸的,所以作为应对的自然神同样是诡秘的。
而且神灵未必总是“善”的和温和的,日本就有狂暴、破坏性的“荒神”这一类神明。
而后来普遍视作善神的“福神”,在更早的时代,也和荒神一般恐怖。
比起单纯的善恶,神灵更多是有着自己的行事逻辑,人类是很难捉摸的。
片中使用了一般认为性格不可捉摸的动物——猫,作为神灵的化身,就是体现了这一点。
6. 与神灵“结缘”
因为日本的神灵是不可捉摸的,很多时候是可怕的,所以轻易与神明建立联系是危险的举动。
玲芽对白猫说“来我家住吧”,就是对神灵的一个邀请,神灵同意了,于是两者建立了契约,这就是“结缘”。
从此这个凡人就对神明负担有某种义务,但同时也会得到一定程度的庇护、获得神谕等等能力。
但是,因为神明行事诡秘,如果触犯禁忌或惹神明不悦,可能会是很大的麻烦。
比如著名的座敷童子,如果接受邀请入住一个家庭,这家就会越来越兴旺。
但如果座敷童子离开,这家就会很快衰败。
在故事中,本来神灵白猫要以玲芽为媒介,进行前往下一个大地震之门的移动。
但在这个过程中,玲芽又和白猫发生了“结缘”,要迎神明回家。
神灵的两个去向是矛盾的,但两个契约同时有效,于是发生了混乱。
于是,白猫的解决方案是,将镇压地震的神职转移到男主身上,自己则随玲芽回家成为她的家神。
于是矛盾解决,两全其美。
但问题是,作为凡人的男主化身的椅子,能力是不够镇压新的关东大地震的。
虽然暂时中断了地震,但引力还是在一直在积蓄肆虐,临时镇石摇摇欲坠。
这个巨大的灾难,必须黑白两位本来的神灵,才能镇压住。
所以,最终还是白猫退回了成为玲芽家神的契约(“对不起,不能和你一起生活了”),回到原来的神职上,压制了大地震。
人类之于自然,究竟是怎样的存在?
从陨石到极端天气,再到地震,新海诚在《铃芽之旅》里继续着关于人和自然关系的探讨。
他在一次采访中介绍了《铃芽之旅》的创作背景。
他提到,“前几年疫情严重的时候,东京某种程度上就像是一种轻度封城的状态,马路上都没有人。
可有一次出门散步,那时候正好是春天,他看到樱花开了,它并没有感受到人类是怎么样的。
人类受到这么大的冲击,但是对樱花一点影响都没有,它们还是在开,完全就没有人在看它,它依然是那样开放的。
”在新海诚的画面里,可以看到自然非常唯美的一面,有人们向往的樱花,海浪,微风,涟漪,也有往门里面常世的夜空,繁星。
可是人们沉醉而向往的美,在新海诚看来,不过是一种人类的“单相思”。
的确,没有了人类,春花照开,秋月照悬,自然从来不为人类而盛放美丽,却常常被忽略了美丽背后的残酷——它可以摧毁建筑,消灭文明,制造出往门,置生灵于涂炭,不费吹灰之力。
跟既往的作品一样,铃芽显然就是日本漫画里常见的那个“被选召的孩子”,最令我惊诧的是,她踏上拯救世界的旅途其实是充满懵懂和无知的,与其说是去拯救世界,不如说是满足年少的好奇,弥补自己误开门的愧疚,同时也是挽救自己有好感男孩的身体形态。
但是没有一条是要肩负着拯救芸芸众生的信念,这几乎跟备受争议的《天气之子》核心理念如出一辙。
我们的成人世界呼唤英雄,讴歌牺牲,就如闭门师世世代代相传的,认为以己身去封印蚓厄是一种荣耀。
这也是主流影视作品,像漫威DC等超级英雄片在弘扬的大爱理念。
但新海诚并非如此,他用颇具挑衅意味的处理危机的方式,传递着自己的见解。
铃芽进入到往门里,只是想让喜欢的草太复生,抱持着拯救爱人的单纯信念,不惜以自己的生命相抵。
或许这才是少年看待世界的角度,少年尚未经历社会,他们是跳过了复杂的社会层面,直接且纯粹地与世界联通的。
就像蒙昧初生的婴孩第一次接触到了镜子,看到了镜中自己的身体,方才形成了自我的意识。
少年们第一次在人生之镜中看到了人世间美好的爱情,这种爱开始完善他们自我中的情感部分。
敢为爱牺牲一切,甚至牺牲世界,如此忤逆认知,大逆不道的想法,却可以在新海诚的作品中得见。
此刻,他们尚且看不到芸芸众生,却敢为了心中那个非常纯粹的感情奋不顾身。
说起人类对自然的“单相思”,环阿姨对铃芽看起来过度的呵护和关怀,何尝不是一种单相思。
在这种过度关注里,铃芽感到的是几乎窒息的感受,然而在黑猫左大臣的帮助下,环阿姨在操控下对着铃芽喊出了“把我失去的人生还给我”这样另一种“自私”的呐喊。
甚至在恢复清醒之后,环阿姨也没有否认,这也是她内心想法的一种表达,只是稍微极端。
在人类社会,常见长辈对子女过度的关爱,甚至是牺牲。
因为铃芽,环阿姨无法去约会,认识新的男人,组建自己的家庭。
看起来毫无怨言,却将这种牺牲感成倍压制在了对铃芽的关注上了。
这是畸形的,不合理的,这种牺牲感加剧了代际之间的割裂。
新海诚敏锐地捕捉到了这种牺牲与人类自私本性之间的矛盾,又与关闭往门与保存自我之间形成了微妙的对照。
《铃芽之旅》的核心当然是如何从伤痛里痊愈,如何与自然和解的。
当成年的铃芽进入幼时误入的往门,看到了儿时的自己时,片头那个模糊的、易被误认为是铃芽母亲的背影终于有了全新的答案。
像是未来的自己穿越了一道时空之门,来告诉幼时无法处理苦难的自己一个答案。
未来早已经被写好的宿命论,让铃芽日记里被黑色涂满的页码之后,可以翻出新的彩色篇章。
而那时候看到了长发飘飘的男孩草太,也解释了为何在坡道上一个问话和擦肩,就能让铃芽一见钟情的原因。
未来早已被写好,缘分也是早已注定,所以后来不顾一切的拯救和牺牲才便得更加合理。
往门常常存在于废墟,废弃积水的泳池、早已荒废的旧学校、无人经营的摩天轮公园、阴暗的轻轨隧道,这些废墟或许有过鼎沸的人声,情感的纠缠,也见证过无数“我出发了”的宣告,人们告别踏上旅程,形成看不见的丝线羁绊,这羁绊越来越长,有些却没有收束,或许积累出了怨念之门。
《铃芽之旅》用这种近乎浪漫架空的设定,将目光投射到了那些被废弃的景物之中。
“人心的重量会让土地平静”,那些潜伏着躁动蚓厄的土地,是否是因为太久不曾有人们直接的问候、祝福、祈愿,太久没有经受人与人之间的牵挂、思念、羁绊,才变得狂躁不安?
诚然,人类的爱不会阻止地球爆炸。
大自然从来不会为人类的情感转移,它依然冰冷、可怖、不近人情。
但是凭着单纯的少年之爱,凭着纯粹的对母亲的思念,人类或许在看不见的地方,可以拯救地球吧。
在面对无常的灾难时,在地撼山摇之后,无能的人类能拥有的全部力量,难道不就是对彼此没有来由的爱吗?
环阿姨对铃芽是,铃芽对草太是,草太对众生也是。
温柔的新海诚告诉那些受过伤的人们,你会封印要石,关上往门,从常世回到人间。
你会吹到微风,看到涟漪,感受到热闹与爱。
你要告诉无法从灾厄释怀的自己,未来早已注定,请推开那扇门,走向未来。
从某种角度来说,也许,可能,爱确实会拯救地球爆炸。
痴迷于灾难和爱情主题的新海诚,似乎每部电影都恰逢其时。
2016年熊本大地震后,《你的名字》横空出世,电影中彗星灾难下,男女主跨越时空的倾城之恋让无数观众潸然泪下,不仅以超过250亿日元的票房成绩登顶当年的日本票房榜首,中国票房超5.7亿破日影票房记录,也终结了《千与千寻》霸占多年的日影全球票房冠军之位。
而到了《天气之子》上映的2019年,全球气候变暖导致的水灾已经成为日本重要的社会议题。
电影中男女主在爱情和拯救世界之间的抉择恰好击中了观众的心,《天气之子》再次成为当年日本的电影票房年冠军。
到了2022年末,在全球都未曾从疫情之殇中恢复的时候,《铃芽之旅》上映了, 这部新海诚灾难三部曲的终章之作不负众望地又一次突破百亿日元票房,并且入围了第73届柏林电影节主竞赛单元。
连续三部作品票房破百亿日元,除了宫崎骏,新海诚是日本影史破纪录的第二人。
在樱花盛开的3月,这部电影也要登陆中国的大银幕了,看过电影后,我觉得,这部片实在是太动人太应景了,一定又会掀起一波新海诚热。
其实一部动画电影,从企画到制作,需要相当长的周期,两年前还新鲜的概念和主题,往往在上映时就会有过时的尴尬。
为什么新海诚总能精准找到疗愈社会情绪的痛点呢?
我想,重点就在于,在传统的故事之外,新海诚在情感上把日本的物哀美学和热血动漫调配得恰到好处,虐的部分让人感受到真实和被认同,燃的部分又给人暖暖的治愈,让生活中受挫的观众能够在观影后,带着对生活的爱与热情走出影院。
《铃芽之旅》也是这样的一部电影。
和前两部相比,电影的故事融入了更多社会议题,因311大地震而丧母的17岁少女铃芽,对身为关门师的东京大学生草太一见倾心,却无意中拔出了镇住灾害之门的封印石,灾害之门通向往生世界,一旦打开便有蚯蚓状的巨兽引发地震。
封印石变成了白猫大臣,大臣爱上了铃芽的温柔,不想再做封印石了,为了阻止草太关门,她把草太封印在铃芽母亲的遗物,一把三条腿的椅子上。
为了追回大臣,关上灾害之门,铃芽、草太和大臣,一人一猫一椅开启了奇幻之旅。
通过这组奇特的三角关系,和三人一次次为了关上灾害之门而产生的冲突,新海诚非常漂亮的把铃芽地震后面对丧母创伤的自我成长、爱情故事、以及日本灾害后民众内心重建的群像这三条主线拧在一起,并在整个灾害巡礼的终点,311大地震的中心宫城县,将所有矛盾冲突解决。
整体叙事非常的流畅,给人特别畅快舒服的观影体验。
在华丽的故事之外,真正动人的是新海诚对铃芽治愈内心创伤的细腻刻画。
尽管新海诚特别明确地把创伤具像为311大地震,但它更像是一个隐喻,通往冥界的门和像蚯蚓般凶猛的巨兽,正是遭受灾难后内心伤痛的外化。
过去三年,全球的民众都感受到了新冠疫情带来的无常,正常的生活规划随时会被改变,打断,甚至戛然而止。
而对于生活在摇摇晃晃的岛屿的国民来说,无常几乎是他们生活的常态,早上出门时说的“我出门了”,有可能等不到回家时那句“我回来了”。
铃芽就是等不到母亲说“我回来了”的小孩,年幼丧母之痛让她的成长也被按下暂停键,有关伤痛的记忆被遗忘,她的内心也留下了巨大的黑暗能量,像蚓灾一样随时会喷发,痛苦会在一次次触景生情中吞噬受过创伤的人。
而猫咪大臣,就像是铃芽黑暗空间的喵格化展现,大臣为了得到铃芽的爱,不惜毁天灭地。
但观众却很难责备她的任性。
毕竟,猫猫这么可爱,她想毁灭世界一定有她的道理。
大臣特别缺爱,缺少家庭的温暖,只因为铃芽的一次温柔以待,就为了加入铃芽家而把封印石的职责推脱掉。
当她发现铃芽真正爱的是草太的时候,又义无反顾地做出了勇敢的选择。
这种情有可原的任性和不负责任,也像极了日本在地震受灾后的反应。
与猫咪大臣相对应的,关门师草太,则是铃芽求而不得的爱和温柔的化身。
他在东京长大,没有受到地震的直接影响,有家庭和家族的传承,还有考教师资格证当老师的人生规划,和内心已经是废墟的铃芽相比,他是阳光的,也正因为如此,铃芽才被他吸引,追随他完成关闭灾害之门的任务。
关闭灾害之门本身,也是铃芽用阳光照亮内心黑暗废墟的过程。
和草太一起陪伴和疗愈铃芽的,还有那些也受到灾害之苦,但已经能够站起来的人,不管是抚养她长大的小姨、开酒馆的二孩母亲,还是草太的朋友,都在用自身的温暖善意把铃芽从黑暗里往外拉。
其中,草太的朋友在俯瞰废墟时说的一句话特别戳中人心,“这一带原来这么美啊。
”这句话让铃芽内心惊动,很久以来,对她来说废墟只是废墟而已,她无暇从废墟中抽离出来,看到其中的美。
这句话让我想到《黑暗荣耀》中复仇大婶那句“什么破晚霞,还美成这样。
”那种东亚民族面对伤痛时共同的,从悲凉中流淌出的生命力,异曲同工地直击观众的内心。
也正因为如此,铃芽才能够在最终,对儿时受创的自己说出那句全片点题的台词。
这句话,我相信也是新海诚借由角色之口,说给每一位观众听的——“活下去的话,一定能遇到你喜欢的人,也会遇见很多喜欢你的人。
虽然你现在身处绝望之中,但一定会有闪光的日子在前方等着你的。
”新海诚曾说,希望动画对观众而言是像创可贴一般的存在,受伤时可以用它加速伤口愈合。
而作为疗愈伤口的创可贴,《铃芽之旅》是令导演和观众都感到满意的。
● 序言从《你的名字。
》、《天气之子》到《铃芽之旅》,笔者见证了新海诚迈向国际化电影娱乐水准的进步,对影视工业化的精进感叹之余,更切肤感受到他在电影中表达的宽厚、博爱的人文情怀、对人性真善的温感刻画。
本文为笔者二刷《铃芽之旅》后,从角色角色人设和情感动机、核心要素和考据、人文情怀中心思想这3方面做一些深入浅出的解读和个人理解的分享,由于内容较长,文章将分为【角色篇】、【考据篇】两部分更新。
《铃芽之旅》的电影的类型 是结合了"Call to Adventure=召唤冒险”的“Road Movie=公路电影”两种形式,其中“召唤冒险”指代故事的开头,通常由主角受到某种激励或启发,开始一段新的探险或挑战,尝试突破自己的舒适区,探索未知的领域。
通常也可能是主人公在冒险开始时所经历的关键情节;而借助“关门”和“找猫”这两个动机一路奔波的日本地震‘灾地巡礼’,同当地居民的相见和离别,更是公路电影的标志性格律。
● 认识主角 另类视点解读
生死观、自我救赎—‘灾二代’少女的成长之旅铃芽的身世并没有新海诚在之前两部电影中的主角那样、受到超自然能力和宿命论的影响。
倘若简单概括铃芽的人设,一言蔽之就是“站在世俗边缘、有勇敢潜质但又怀揣独孤的‘灾二代’”。
由于电影的立意在于将311作为引子,借以深度刻画天灾人祸给社会造成的不可逆伤害,包括灾难本身、灾民的集体创伤、以及灾后的人性改造。
311事件背景不仅赋予电影重量感以及可以被投射出现实含义的立体镜头语言,更让铃芽的人生经历成为“灾难三部曲”中最为浓墨重彩的一笔。
铃芽的首要属性是她的童年经历(从311大震灾中生存)捆绑的阴影,以及在灾后重建社会中长大的背景。
这个设定和常人在习惯上最明显的不同,就是她宛如与生俱来般对地震警报有着敏锐的反射神经。
震灾不仅夺走了铃芽的母亲、还夺走了她的生死观念。
从小目睹生命如浮游的孩子,在学龄刚开始就先接受了触目惊心的死亡教育,其影响可想而知。
当草太第一次问起来一是否怕死 便脱口而出“不怕”,并非因为她真的勇敢,相反是因为她从小就丧失常人的生死观。
电影中有着密集且高度拟真的,对手机以及各种媒介播报地震警报的描写。
在日本放映厅的门口,甚至有对此的特别申明,可见地震警报已成为日本国民难以不去习惯的日常之一内心怀揣着对母亲难以言表的思绪,被全职工作的阿姨一手带大,这种来自非原生父母的关怀、注定无法成为父爱/母爱的代餐。
阿姨的忙碌也让铃芽更早明白自己的存在是一种负担、所以愧疚感早就开始缠绕上她,这一系列早熟的经典配方,早早注定了她和这个年龄段不相仿的孤僻、独立、自我。
也可以解释为什么铃芽的房间里没有半点思春期少女该有的气息的,脏乱无章、加上飒爽的骑车姿势、不顾同学劝阻的我行我素,都可以解释为铃芽半孤儿的精神标志。
个性残缺者、往往对外界总是保持着一定的距离感。
电影将观众的视点和铃芽合二为一、代入到‘灾二代’与众不同的行为逻辑、以及诸多行为背后的价值观差异。
随着铃芽相遇蜜柑少女、酒吧老板娘,被他们的温柔触动,我们更能感受到铃芽内心的孤寂如同空虚的容器一般被善和爱填满、良性化学反应逐渐让她卖向拯救草太和自我救赎的旅程。
从面对弱小到和养母的和解、从克服心魔到常世中的自我救赎,人们如何寻求彼此的陪伴与温暖,从而走向成熟和自我救赎的重点,都在于变化、而非只有结果,这也是为何笔者认为《铃芽之‘旅’》这个译名选得颇为通透的原因。
椅子不仅是铃芽从小对母亲的唯一思念寄托,亦是对解密自我救赎闭环、常世时空特性的重要道具铃芽的命名隐喻是?
不同于灾难三部曲前两部中的主角名称仅仅是氛围和人设较为契合,本片主角铃芽(すずめ)的角色命名,结合剧情其实别有用意。
“すずめ(读作suzume)”在日文中亦可写作汉字“雀”,即是泛指“麻雀/云雀”等雀科的小型鸟类,在剧中其实有两层隐喻。
日文中有成语 "雀の涙"(读作suzume no namida)这个词,直译为“雀之泪”,由于雀鸟很小,因此它的眼泪也非常小,所以这个成语就像是在说“像雀的泪水一样微不足道”,常被用来比作非力、较小无力的存在或行动(‘雀’单字也常用来指代活泼但娇小的女性或孩童)。
在实际使用中,这个成语常用于形容数量很少、不足以满足需求的物品或者微小的恩惠。
日文中的【雀之泪】作为谚语经常被用来表达对某件事的无力感,但由于“雀”的可爱形象,通常这种比喻暗藏对某件事希望得到改变的期许结合电影理解,铃芽的努力如同螳臂当车一般微不足道,但当每个人的思念汇聚,对日常美好的思念,终将制止灾难、或从难中重生。
新海诚试图通过用作为弱小人类代表的铃芽(雀),通过她的坚强和善良,启发每个人对责任心的自觉。
所谓勿以善小而不为,即便善举如同“雀之泪”,聚沙成塔也总能让世界不变得更糟。
就如同灾难三部曲中帮助主角的关键配角们,最典型的就是这次的芹泽‘老师’,从一种真实的生活态度方面来看,电影意在鼓励人们丧失使命感和内心疑惑的时候,不妨尝试以行动帮助他人,‘总之先跑起来’,前方的景色(人生)自然会展开。
“雀”的第二层隐喻是‘笼中鸟’,指代在遇见草太和大臣之前铃芽的小镇生活。
而目睹蚓厄肆虐、经历第一次‘关门’,加上时逢要石松动,在大臣的引导下,铃芽这羽笼中鸟,终究还是飞翔了广阔的世界。
说起这第二层隐喻,不得不再提及结合电影中的另一个隐藏要素“蝴蝶”一同细品。
作为一部经典三幕式格律的影片,在每一幕过度的镜头中,你总能看到不少精美的(通常是黄色的)‘蝴蝶’描写,但在篇幅已明显受到大幅凝缩的电影中,倘若要突出日常的珍贵,那么信号灯和街景便足矣,而当笔者发现:就连光阴似金的PV中,都有留給“蝴蝶”的独立一帧,那么这个元素必定有他的用意。
其实,黄色“蝴蝶”的描写主要是为了突出铃芽故事中经历的关键成长(羽化)的节点暗示,这和她说出“我不怕死”起到呼应作用,正如同两次“我不怕死”的前后语境以及觉悟不同,蝴蝶的微观、“我不怕死”的台词、以及女主两次给自己衣服上打“蝴蝶结”的细节描写,其实都是对与女主从遭遇风暴(成长挫折)和完成羽化(心灵归宿)的重大转变的承启(“蝴蝶”也经常被用来形容死里逢生的人生经历,也和铃芽经历311大震灾后获得拯救、重生的经历呼应)。
片头一开始出现在铃芽身边的两只蝴蝶,亦有可能暗示着和草太最终的连理。
时而如雨后残叶上的碎影、时而是朝阳下的彩翼。
融入以唯美著称乃的‘新海式街景’,仿佛浑然天成、不易察觉P.S. 可能是出于故事需要,铃芽的体能堪称惊人。
从上坡路的疾速骑行、废墟跑酷、到纵断半个日本,铃芽的体能都达到了铁人级别。
加上她先跑后想的卓越行动力、甚至和前两部作品中的男主角滝、帆高相比有过之而无不及,日推上对铃芽的印象给出“漢女”、“猛禽类”、“肉食系女子”等评价也不在少数。
加上‘把搭讪男子带回自己家’、‘亲椅子’等为铃芽贴上的钝感标签,更使这个角色显得分外独特。
不过超纲的体能和机动力设定,某些程度的确是满足了电影作为快节奏公路电影的需要。
日本网友在观影前后对铃芽的印象改观
英雄、使命感—神职者末裔的爱之觉醒灾难三部曲的共通点是均采用【Boy meets Girl】的王道引擎驱动主线进程。
只不过这次,少男少女之间的情愫以一种半透明的柏拉图质感表现。
此举的用意,从影片中对草太的人设架空可瞥见端倪。
简单概括就是两点:①是借助草太的外貌气质突出铃芽对其的在意(真.梦中情人),触发骑车寻人桥段;②是迅速借助大臣之手把草太变成了椅子,抽离、削减了观众因其外貌对这个角色的滤镜,反向输出他优良的精神品质并拉近观众印象,让铃芽后半段的舍身更顺理成章。
在成为椅子期间,男主因诸多原因无法和女主进行正常互动,这种‘禁断系’设定也让笔者联想到《来自星星的你》,但电影本质上是希望我们摘下对他的外貌滤镜,从为人处世和精神品质的角度理解草太的独特魅力。
事实上这种效果远超笔者想象,通过设定我们知道,从爷爷宗像羊郎继承了家族使命的草太,也算是个社会孤儿。
羊郎因‘工作’断臂,晚年住院却得不到全面的看护这点,可以看出闭门师是一件不被机关待见的苦差事。
草太似乎对于自己的工作没有半点的怨言,语言中充满着温柔和理所当然,哪怕他被施咒变成了一只不到30cm还缺了条腿的板凳,依旧能追着猫(大臣)满大街狂奔,这种不受肉体限制的强大精神韧性,近乎是超级英雄级别的强度了。
笔者认为,正是草太超越肉体的责任心和使命感(英雄气魄),加上整理铃芽房间时表现出的细心和检点,些许唤醒了深藏长久铃芽内心的少女心绪。
宗像羊郎登场时间虽短,却干净利落地演出了一个有着强烈使命感,有点顽泯但身残志坚的形象,作为草太的祖父,草太的坚毅可以说完全是羊郎遗传的此外,草太提到闭门师吃不饱饭,立志成为教师,但真当‘往门’被开启时,他又决然将考教师一事放到旁边。
他作为大学生的社会身份和未来规划,借由草太的话以一种滞后且极为轻描淡写的方式传递给观众,不仅是草太将自身永远后置的表现,也和当时生死观残缺的铃芽形成鲜明对比。
可以说,草太作为铃芽生死观念的导师,同大臣一起促成了铃芽的蜕变。
宫崎骏电影中第一神秘美少年——哈尔P.S.新海诚曾在采访中透露,《铃芽之旅》致敬了一些宫崎骏作品的经典要素,除了芹泽车载播放的《魔女宅急便》主题曲,草太的人设,亦有多少和《哈尔的移动城堡》中的哈尔雷同的要素。
不仅是服装配色、颈部吊饰、发型,作为动画界的长发男神第一人,草太初登场时的神秘感和哈尔如出一辙,大学生、教师、英雄,简直是JK少女憧憬的王炸配方。
诅咒、指引、牺牲—神明的嬉戏与宽容大臣的出现让铃芽的生活发生了天翻地覆的改变,所到之处皆是欢声笑语,也促使草太和铃芽在蚓厄出现的千钧一发关闭‘往门’,如果要说大臣扮演的是善是恶,毫无疑问是善灵,而且是铃芽这段奇幻冒险、乃至人生脱胎换骨不可或缺的‘引路人’。
但正如草太所说,神灵的本质是无常的,即便他有自己不得违背的使命,却无法总是选择让人类接受的方式沟通,因此才会有剧中看似不听劝阻的满地图乱走(实际上是有规划的),以及为了得到铃芽的关注和爱,不顾铃芽的感受一言不合就把要石的属性转到了草太身上。
其实大臣最初的动机、以及他的生存根基,非常的单纯,就是要得到人类(尤其是TA在意的那个人)的关爱,而这个人正是将TA从‘要石’的枯燥使命中解放出来的铃芽。
神是需要人敬仰的存在,不仅是人类对于神有精神依托的各种祈福的需求,反向的,人的敬仰、爱戴、关注,也是神灵存在于这个世界的根基(假如没有人参拜 ,神社、教堂便不会有维护的资本,神像势必黯淡无光),世上诸多宗教和神话中都有诸如此类的描写。
大臣也正是建立在这种和人类社会共存关系下才得以获得生机的神灵,因此,被铃芽宠爱时自然吐出的“要不要来做我家的孩子?
”才会让大神犹如物种进化般,从邋遢的流浪猫,成为了活力充沛、且会说人话的状态。
大臣的‘任性’随着左大臣的出现得到制止,这是因为两神(猫)之间非比寻常的关系。
熟练的叼小猫动作,阿尔法罗密欧后排座位上给大臣顺毛的左大臣,以及两神在变身后的黑白互换,大臣和左大臣的互动描写,基本都‘明示’着他们接近亲子的关系。
此外,根据草太爷爷羊郎对于‘闭门师可化为要石’的描写,以及羊郎对左大臣的几句恭敬的台词,笔者在这里猜测:大臣和左大臣,不仅和草太一样是由人化作的要石,而且极有可能是一对闭门师的亲子,甚至可以更大胆地推测:大臣和左大臣就是宗像家族的祖先,并为在闭门师职业诞生之前就位镇压当时的蚓厄甘愿成为要石,让大神们降临到自己的躯体中。
按照这个假设推演下去,黑猫(左大臣)开始行动,是为了推进对蚓厄的彻底镇压、以及对白猫(大臣)顽泯的人性化教育这点,之后大臣舍弃自由、主动选择变回要石,亦可以解释为在左大臣的说服下,回忆起身为闭门师的使命、作为祖先对晚辈的珍爱,不应该再诞生新的‘人柱’,对草太和铃芽的珍惜和自我牺牲,就更合乎情理了。
从大臣和左大臣的外型、单眼旁边的“眼线色”、他们的特殊技能、以及彼此的镜像关系,他们的神灵原型应该是日本神话中的天照(Amaterasu Omikami)和月读(Tsukuyomi-no-Mikoto)。
关于这部分的详细会在考据篇中展开其实新海诚并不是首次采用这种世袭和类似‘转生’的设定,最典型的、《你名》中宮水三葉也是宫水神殿的巫女继承者,而主题曲【前前前世】则是暗示宫水家祖先就有身份穿越的特性,加上神道学中提到的宗室特色,实属惯用手法了。
左大臣和大臣的关系,除了从第三个角度(第一角度是铃芽母女、第二角度是铃芽和环姨)映射铃芽的亲子关系,此外上文提到草太和爷爷的窘迫生活现状,多少也是对当今传统文化的延续断层、以及少子化社会的哀唱了。
●《角色篇》总结:不同于前两部作品,《铃芽之旅》绝无浓墨重彩的恋爱情节,不过铃芽和草太的关系变化却仍是剧情中最值得品鉴的细节之一。
两人的关系角度:起初对于草太而言,铃芽只是被拯救的云云众生之一,直到这层关系在椅子成为要石后完成关系的置换。
从亦师亦友到终生不可或缺的存在,铃芽的旅途除了和各种人物的相遇,也更是和草太共享人生经历、完成价值观和情感同步的过程。
电影艺术的角度:《铃芽之旅》试图创造一种在天灾衬托下升温的无痕情感,元好问的诗中写道“曾经沧海难为水,除却巫山不是云”,日文中亦有使用“今天的月色真美”比喻对心上人的喜爱,影片将共享公路和人生的美景,比作是两人托付彼此人生的信任。
主题映射的角度:草太和铃芽的感情,与其说是情愫交织的必然结果、不如说是一种特殊情景下促成、象征患难后真情的情感符号,浓缩两人对相遇、相知、相惜和相信,一种远超初恋的彼此交付,而这种符号也是灾后群众温柔特质的幻化。
这两人的情感由于深藏对话和神态举止的细节,容易被忽视,但其中绝无半点不合情理的地方。
新海诚没有在其中加塞任何肥皂成分、甚至没有布置内因矛盾,但是并不代表Boy meets Girl不应开花结果,相反,常理来说你都和对方拯救了这么多次世界了,这不是命运的选择,还能有更合适的吗?
不选TA说得过去吗...文续下篇:集体创伤和真善唤醒——《铃芽之旅》 万字解析(考据篇)
YO!
时隔三年多,唯美画风纯爱动画片大导演新海诚,带来他的新作《铃芽之旅》,又名《你的门子》,《你的椅子》,《你的猫子》,今天就来聊聊这部今年我较为期待的动画片。
在这我需要先说一下的是,虽然《铃芽之旅》也收获了很强的人气和票房,但新海诚依然是一位有着很强作者标签的创作者。
因此喜欢他的影迷应该会依然热爱这部《铃芽之旅》,但诸如新海诚对故事叙事流畅度和节奏的把握,角色动机和台词的控制,那些可以争议和讨论的空间,这一部依旧会有。
所以新海诚也不会在《铃芽之旅》改变太大,最后喜欢或不喜欢,都希望能理性讨论,peace。
本期解析会分为两个部分,先无剧透点评,然后再剧透深入脑洞片中的疑问。
从预告我们能看到,《铃芽之旅》是新海诚一贯的奇幻都市浪漫冒险风格,不过这次是以公路片类型来作为叙事框架,公路类型片有个好处,节奏更快,遇到的新奇事也更能自洽合理化,还可以看到更多风景,当然公路片也有自身难以把控的地方后面会聊到。
影片从一长串被我们津津乐道的喘气声开始(不是)……影片从一位居住在九周宫崎县港口小镇的17岁少女岩户铃芽开始,在某日上学途中,她偶遇了一位从《哈尔移动城堡》过来的长发花美男草太,铃芽这情窦初开的年纪,怎么抵挡得了一个带着流浪气质,留着长发不拘小节但又干净英俊的少年,看一眼就满脸通红一见钟情。
缘分妙不可言,草太还叫住了犯花痴的铃芽,询问这地方有没有废墟,他在找一扇门,这不是一般的门,草太就是负责关闭这种门的关门师。
某种被动原因,男女主就因为这扇神奇的门联结在一起,由此展开横跨大半个日本的公路冒险奇幻旅程。
相信不少动画影迷早早就从《云之彼端》,《秒速五厘米》等早期作品,就认识新海诚。
但其实新海诚更被大众认识并熟知的,应该是在2016年《你的名字》爆火那阵子,似乎在热映那段时间,大家都在聊《你的名字》新颖神奇的脑洞设定,还有唯美画风,虽然男女互换身体不是新鲜事,但加上纯爱总会显得更多了几分神秘和浪漫。
一晃眼3年多又有了《天气之子》,然后到现在的《铃芽之旅》,六年多的时间里,新海诚完成了大家给他冠名的灾难三部曲,不知道之后还会不会变成四部曲。
所谓灾难系列,因为《你的名字》是彗星撞地球,《天气之子》是极端天气淹东京,到了《铃芽之旅》,就是地震。
这也是我认为《铃芽之旅》相较于前面两部影片,来得更为靠近现实,更有讨论和思考的方向。
彗星或陨石撞地球,或许那是在恐龙时期和其他灾难电影上的情节,而极端天气虽然有,但都是季节性不至于下雨几十年要灭城。
而地震,对于人类来说应该就没有那么陌生了,尤其是对于日本来说,更是家常便饭,新海诚这次玩得更大胆,直接把日本有史以来最强地震作为故事中的一个重要背景,去由此来作为观众和影片联结真实情绪的桥梁。
在2011年3月11日,在日本东北地方太平洋近海发生强烈9.0级地震,这是日本历史已知最强地震,地震引发巨大海啸和余震。
这次地震史称311大地震,而这次地震留下了的伤亡,还有更严重的社会问题,全球问题,以及在地震中幸存的人们心理的创伤,都成为现今还在隐隐作痛暗藏在日本土壤里生根的恐惧和伤痛。
而对于全世界来说,地震也并非是一种罕见的自然灾害,其实地震每天都有发生,只是有些地震很小或发生在无人居住的地方,但如果震中人密度高或震级大,会导致严重的灾难后果。
比如2008年的汶川大地震,15年的尼泊尔大地震,还有最近的土耳其大地震等等。
我上中学的时候,就经历过一场小的地震,由于地震不像天气,是发生在地表下面的板块运动,很难预测,突发性未知性很强,给人带来的恐惧和压迫感是相当强烈的。
这是比飞机遇到乱流胡思乱想来得更强烈的内种。
在看影片中地震来到的时候,看影片时我真的都有点坐不住了,从未有过的慌张感很真实也很让人不适,所以千万别选什么4D厅记住,不然到时影片地震时你椅子震动,那是很恐怖的一件事,起码对我来说,这种刺激感我情愿不要。
新海诚也在访谈中提到,《铃芽之旅》上映前他是非常担忧的,因为影片中的一些画面,可以说侧面还原了311地震时的一些触命惊心但又让人印象深刻的场景。
新海诚担忧这些戏份,会重新揭开人们尤其是亲生经历过311幸存者的伤疤。
比如在多支预告都有出现一艘船在屋顶上的场景,这就是311地震引起海啸,把一艘观光船冲到了住宅房子上。
影片像这样的画面还有很多类似的刻画,虽然新海诚以细腻真实还原著称,但对于真实发生过的灾难,新海诚还是把这些灾难现场做了修改,用较为温软的笔触去轻轻提及点到为止。
铃芽所去往的每个城市,也是曾经遭受过较为严重地震灾害的,等于是一路在介绍日本游玩路线的同时,也向这些经历过较大地震的城市给予关注和安慰。
《铃芽之旅》虽然依旧能看到新海诚所有的个人标签,比如唯美的日出日落,延时摄影场景,纯爱的城镇学生爱恋情节,还有洗脑好听的歌曲。
不过也能看到这次影片因为更为现实层面题材的引入,新海诚尝试改变了不少。
首先就是节奏快到飞起,开场第一幕很快结束,进入到打怪模式,然后事件和地点一环接一环,根本不会让你有喘息机会,甚至在某些重要时刻,我都觉得节奏有点过快了,以至于造成角色之间情感建立的小缺失。
就是那种我以为自己去上了个厕所回来,少看了一场戏的错觉。
然后因为节奏的加快,MV式的运镜消失了,想在影片中欣赏MV的影迷估计会有些小失望了。
影片虽然有不少歌曲,但不会像以前的影片一样,有类似于MV式的过画面模式,而是真的成为配音甚至是音效,取而代之的要么就是哼两句就结束,或者有对白置入。
说到对白,影片这次有大量对白戏份,饱和式的攻击让我不停看字幕,能看出新海诚这次很有表达欲,想要把自己对日本和地震的特殊联系,以及日本人对于地震那种天然的敬畏和压抑,都在这个影片中传达出来。
而且新海诚还是不想放弃一直秉持着的纯爱题材,然后还是公路类型,因此影片看下来是相当丰富的,有相当多的细节可以一看再看。
聊到公路类型,前面说到该类型难以把握的就是节奏和戏份占比,公路类型片的特点就是去往不同地方,而且不能折返,所以每到一个地方的戏份,需要都好看,因为每到一个场景和角色,只会出现一次,途中铃芽经历的事件,又必须和主线有关联并且有趣,然后这些戏份,还需要对塑造铃芽角色弧线起到作用,角色成长层层递进,这是很考验编剧和导演执行力的。
还好新海诚算是能顺利完成,虽然影片有一场带小孩帮人打工的戏份个人感觉稍微有点长,但途中那些和铃芽互动的配角塑造,就没有前几部来得那么丰富,而且其实可以让草太的好友芹泽早点登场,他才是影片活跃气氛的大宝贝,他出现之后,影片整个有了公路电影那种行走舒适的调性,幽默放松,但又带着目的出行,非常自然和舒服。
还有贯穿一整部铃芽的阿姨,虽然很早就出现,但真正讲述她的故事也是比较后面。
因为整部电影是强调地震给日本带来的大灾难,需要男女主去拯救,所以影片主调依然还是沉重的,较为深刻的,以及有着悲伤思绪所围绕的。
说了这么多,大家是否能感受到《铃芽之旅》所要承载的重量,这次新海诚不仅仅想要利用一个新颖的设定去贯穿男女主角的纯爱成就,而是更想让观众感受到,自然灾害地震给人们带来的集体创伤,影片要素非常多。
所以这就不得不聊到影片中的“老毛病”了,就是叙事节奏虽然加快,但男女主的情愫没能很好铺垫并延展开来,虽然影片有2个小时,但这次很明显新海诚把更多时间放在了女主身上,而男主长时间作为...你看了影片就知道了,就很难把两人的交往时刻更细腻的传达出来,缺失了必要的浪漫感,反而我觉得铃芽阿姨和芹泽更来电。
小结一下,《铃芽之旅》我还是很喜欢的,延续了新颖可看性很强的设定,并且事件任务刺激紧张,幽默成分在新海诚影片中占比很高,但同时现实层面的探讨也更为直接大胆,是一部很有诚意和表达欲和讨论度的影片。
要我来给灾难三部曲去排个名词,《你的名字》因为是第一部,而且确实在画面更有观赏性,角色更为立体多样,《你的名字》依然是第一。
《铃芽之旅》是第二,《天气之子》第三。
对于我来说,《你的名字》可以能把更多时间分给男女主的心境,让他们产生更多的情愫和互动,校园时期的他们,也更能体会青春纯爱的氛围。
而《铃芽之旅》则更多被一个重大事件推着男女主往前走,严格来说是推着铃芽走,由于草太的特殊性,两人互动也过于少,以至于最后要表达爱情时,会显得稍显力量偏弱。
这里仅仅只是提到纯爱部分上,《铃芽之旅》在现实和抚慰集体创伤这一块,还是做得很有突破性和感人的。
好!
那接下来,剧透开始!
如果怕剧透影响观影,还请点赞关注+收藏,到时再回来不迷路。
《铃芽之旅》的铃芽作为大女主,聊的是铃芽成长蜕变和自我救赎的故事,从中收获了亲情友情和爱情。
这也是有不少人说,爱情的戏份相对新海诚其他作品,明显少了很多的原因,毕竟影片很大的戏份,是铃芽和一张...椅子对戏。
在影片开头铃芽和草太邂逅,铃芽早已心神不宁,于是铃芽跑去废墟想去直接找草太,殊不知先看到了那扇通往常世的门,意外中铃芽拔掉了要石,要石变成了白猫大臣,从而引发常世里的巨形蚯蚓出逃,如不及时阻止,将会引发超级大地震。
好在草太和铃芽两人合力关上了门,阻止了这次地震,但由于要石被拔掉,蚯蚓会从任何废墟之门穿出,首要任务就是找到白猫大臣,让它变回要石镇住蚯蚓。
但没想到大臣先发制人,把草太变成了一张三脚椅子后逃跑,于是一场铃芽和椅子一边追逐大臣,一边阻止蚯蚓关门,游历大半个日本的冒险展开。
之后影片的剧情,在接下来解析细节和脑洞谜团中展开。
#1,要石片中提到的要石,在日本是真实存在的,人们相信这些石头能镇住地下活动的”鲶鱼”,以此来获得平安。
巨型蚯蚓的设计应该也是从这个神话设定来的,而且蚯蚓就有松动土壤的作用。
影片把地震和神明奇幻等元素结合在一起,蚯蚓在影片中充当了一个反派的角色设定,但仔细想来这些自然灾害现象,针对于人类,就是灾难,但对于大自然来说,并没有好坏的存在。
影片中有两个要石,分别镇住蚯蚓的头和尾,一只黑猫左大臣和一只小白猫大臣。
#2,门和常世废墟中的门,可以进入常世,常世通俗来说就是往生的逝者去的地方,在那里没有时间概念,过去现在未来都可以同时存在。
而进入常世的门,就可以理解成鬼门关。
这种门在废墟中进行阴阳联结,在影片中也被解释为是人们不珍惜神明给予的土地,把土地用过就当垃圾一样废弃,神明就要收回,重新孕育新的土壤。
因此对于蚯蚓来说,它其实也是神明,只不过对于人类来说它并非好神明。
#3,铃芽为何能看到蚯蚓影片正常人是看不到蚯蚓的,而铃芽却能看到,还能把要石拔出,之后还能从特定的门进入常世。
这里影片暗示已经很明显了。
铃芽和家人其实就是311地震的受害者,铃芽母亲是在311地震时遇害的,而铃芽当时应该也是在生死一线间,所以在鬼门关走过一遭。
在影片中废弃游乐场那段,铃芽有看到常世景象,还看到了远处她小时候和“妈妈”见面。
但影片最后我们能知晓,那个站在小铃芽前面的,是长大后的铃芽。
长大后的铃芽开导拯救了小铃芽,算是完整闭环了。
虽然这种轮回穿越设定不是什么新鲜事,但也算铺垫得很不错了。
然后再加上游乐场铃芽看到这一景象,等于是当时是三铃同框。
#4,白猫大臣的目的不少人觉得大臣就是不愿意变回要石,是不是有什么阴谋,是不是想让通过地震来灭掉人类,表面可爱但其实是最大反派。
我并没有这么觉得,白猫大臣的遭遇我更多关联到铃芽。
首先白猫的心智就像是未健全,渴求被爱的孩子,这种性格其实和铃芽很像,尤其是铃芽小时候。
当铃芽看到瘦弱大臣并给东西它吃时,大臣瞬间变得肥美起来,大臣也在那一刻认定了铃芽为亲人,大臣为了得到铃芽的爱,决定不去做要石。
所以大臣并没有决定要引发大地震去毁灭人类,而是更想得到铃芽的爱不想继续做要石,而且大臣有想办法解决要石的问题,那就是让草太去做要石,所以把草太变成了椅子。
当然你依然可以理解为大臣过于自私,把人类存亡风险提升,而且铃芽清楚真相后,也让大臣变回要石,但毕竟大臣是孩子心态,所以也就坚持自己的想法。
不过我们也有看到大臣真的清楚铃芽不愿意接受它时,大臣又变回了瘦弱的样子,而且影片后面,大臣也有帮助铃芽去解救已经成为要石的草太,最后为了成全铃芽和草太,大臣也心甘情愿再次做回要石。
这一条逻辑线捋清楚,就明白大臣也没什么可怕的动机,这些都能在影片中找到相关线索,只是你懂的,新海诚一向对这些叙事手法处理特别不在意,甚至有些关联中间会断掉。
而且细细想来,白猫大臣其实结局还是很令人伤感的。
我们能看到黑猫左大臣体型更大,心智也更像成年人,但白猫大臣就是个小孩子,他们是怎么成为要石的呢,影片没有交代,但可以脑部一下,如果白猫最初其实并不想做要石呢,它其实更想被他人抱在怀里,享受着他人的爱和周游世界呢?
站在大臣的角度,它小小年纪就被封禁成要石,就是为了保护不爱它的人类,是一件很无奈和伤感的事。
#5,儿童椅子为何三只脚铃芽的儿童椅作为奇幻之旅重要的设定,承载了不小的作用,而这个椅子311地震后去了哪里,影片玩了一个鸡生蛋蛋生鸡的闭环。
小时候的铃芽拿到这把椅子,是因为长大后的铃芽把它送给了小铃芽,小铃芽就一直留在身上,然后再等到长大后送给小铃芽,这就真成了一个无法自圆其说的bug之谜了。
这个儿童椅是铃芽母亲手工做给小铃芽的生日礼物,也等于是寄托了铃芽对母亲爱的依靠。
那么为何椅子会少了一只脚,这里我觉得有两层暗示。
第一层是椅子在311地震时被损毁,这是311地震的见证物件,暗示了那场地震的幸存者,都有着不同心理和生理上的创伤。
第二层则是椅子作为铃芽对于母爱的缺失无法完整。
当然还有第三个设定含义,就是三条腿椅子更让人印象深刻,看起来更有趣,还有就是不知道在绘画上,少一条腿是不是能减少不小工作量呢。
另外我还有一个过度解读,影片开头结尾都出现了黄色的蝴蝶,而椅子也是黄色的,或许黄色蝴蝶就暗示了是铃芽母亲,铃芽母亲已经从椅子的一部分,化作了蝴蝶,默默关注着铃芽。
#6,致敬吉卜力或许会有不少新海诚影迷要说了,新海诚就是新海诚,他不需要致敬也不需要模仿谁。
我同意!
我非常同意!
但不得不说,《铃芽之旅》的一些奇幻设定,真的和《哈尔移动城堡》,《魔女宅急便》,《侧耳倾听》,《千与千寻》等这些影片能找到相似感。
而且!
新海诚公开承认确实一些灵感,来自《魔女宅急便》,影片也放有《魔女宅急便》的歌曲来致敬。
总的来说,新海诚没有让我失望,3年多的等待,又给我们带来了一部新奇浪漫大胆的《铃芽之旅》,这次影片对白覆盖率很多,看完电影后,相信你也会被铃芽的“我出门了”,“欢迎回来”这些对白所感动。
好!
《铃芽之旅》点评脑洞解析旅程,今天就先到这里,欢迎大伙伴们留言与我分享你的观感!
爱情来的不知所以,猫猫不比男人值得拯救吗
2022/11/11 受不了了,比想象的还烂,新海诚什么时候能回归初心啊……
烂中之烂 无意义的幻想罢了
真是为大臣抱不平。给它解封的也是你,说要跟它一起住的也是你,一路上救了你好几次命,结果都敌不过帅哥的美貌,生生又给封印回去了。猫猫有啥错?
最让我欣赏的一点是,这部电影没有那种浓烈的个人英雄主义,没有宣扬个人应该心甘情愿地牺牲自己来拯救苍生,而是坦诚地告诉我们,拯救别人的人其实自己也想活下去。站在草太的角度,他还那么年轻,想要好好工作,想要好好享受爱情,想要活下去,这是人之常情;站在小猫的角度,它想要好好地享受人生,体会被爱的感觉,而不是作为一块要石被永久地封印在那里,这也在情理之中。他们最后无论谁变成了要石,都像那把缺了一只凳脚的凳子,是一种永久的缺憾,但也留下了一份让人难以忘怀的回忆。最美好的不是未来,而是铃芽找到了过去的自己,告诉她,你的未来会很美好。
命如蜉蝣,生死无常,无论在这世间一年,一日还是一时,都愿意在此停留,请一定要相信,你最想知道的未来,一定会由自己亲手交到自己手上,亲口讲给自己听。
最让人无法理解的就是那只猫怎么突然从大反派变成了献身拯救全人类的天使?
看完电影跟朋友说“女主真是一个纯纯大XB啊”。通过之前多次脑残操作终于走到了最后不得不面对生死抉择之时,为了强行大团圆结局,新海诚选择了让白猫良心发现,突然决定牺牲自己,换取男女主HE结局。这跟小三一顿努力,最后幡然醒悟,把男主送回女主身边有什么区别?这合理吗?这正常吗?披着文艺的皮搞一坨经不起端详的shi出来有什么意义。(插曲和片尾曲还是很好听的,导演一贯的好品味)
感觉新海诚现在就是被资本和名望推着去驾驭一些他驾驭不了的东西,明明创作内核永久停留在中二阶段,描绘一些无疾而终哪怕无病呻吟的少年心事都可以拿高分,现在反而动不动就要跟拯救/毁灭世界扯上关系。为了圆一个看似精巧的设定,连基本的情感逻辑都只能舍弃,可能导演本人也挺累的。
结尾大战之后,上一秒女主和男主卿卿我我,下一秒猫猫又被变回镇石,我听见后排有位小姐姐大骂道:“什么玩意儿!”
为什么要救男的不救猫咪?
日本的初中生不好好上学 不是在互换身体就是在打雷下雨 这一部直接跟大学生私奔了 霓虹这一代完了
真是,拍了八百年还是那味儿,不了解爱也不会讲故事,只会一味地铺华而不实的浪漫爱神话。从女主为了男主死活不跟一把屎一把尿拉扯大的姨妈好好解释为什么自己不着家,我就知道这一看就是幼稚没吃过苦的男宝编的看似工业糖精实际把女的智商碾在脚底的文化大糟粕
道理我都懂,但是为什么男女主莫名其妙就开始“没有你的世界好可怕”了啊!我寻思我也没去上厕所错过什么剧情吧!还有猫猫到底和女主有什么样的羁绊啊能这么卖命!我更好奇这个啊!
为什么不要猫猫!为什么不要猫猫!为什么不要猫猫!为什么不要猫猫!为什么不要猫猫!为什么不要猫猫!为什么不要猫猫!为什么不要猫猫!为什么不要猫猫!
长大后的铃芽通过往门回去安慰4岁的自己,她说,不要怕,未来你会喜欢很多人,也会有很多人喜欢你。我真的眼角湿润了,相似的话我也对你说过。相比起爱情的外衣,我看到的更多是小铃芽藏着伤口长大,在未来某天遇到一个对的人,开始慢慢打开她的心门,她开始审视自己内心的最深处,最不敢面对的地方,跟着他,勇敢地朝前走,不是拯救世界,而是完成对自己童年噩梦的救赎。
松村北斗灾难级配音。人真的好自私啊,为了这样的东西要牺牲小猫。
大臣的命就不是命吗
我不懂!男的插在那儿不是挺好么,为什么要献祭小猫?!
只有小猫受伤的世界达成了。